― 124 ―《摺師吉田市松の動向と評価》文(注10)には、 『美術世界』は全国諸大家の賛成を得て曩に出版発売の運びに至れり本誌は活版印刷器械にて印刷する小説雑誌の類とちがひ木版彩色摺を以て極めて鮮明美麗に印刷する絵画雑誌に候へば彫工の苦心摺師の手際緻密巧妙を極めざるはなし随つて摺高の加はるに従ひ版木の磨滅を免かれざるを以て板おろしの當座に摺立てたるものと数千部を摺立てたる後の物とは其の緻密巧妙の上に於ておのづから其出来栄を異にせざるを得ず精しくこれを言へば印刷の高を加ふれば加ふる程絵画の美妙を失なふなり鮮明美麗を減ずるなりされば彫刻彩色の精巧果して弊店の予言に違はざるや否やは出版御一覧の上御判定下され(略)と、詳細に木版で行う経緯やその効果について詳述している。こうした木版出版物は発行後、すでに百数十年を経ているのだが、未だに遜色のない、彫の緻密さ、摺の濃淡鮮やかな明治の色彩を伝えている。鏑木清方は、挿絵を描く上で自らもこうした彫師摺師に世話になり、そのことも回想記『こしかたの記』(中公文庫)には記録しており、貴重である。同書の「口絵華やかなりし頃 二」によれば、和田篤太郎にとっては春陽堂設立当時からの専属の摺師が吉田喜代松(天保7年生まれ)で、その子、吉田市松も後を継ぎ、親子での雇用だった。喜代松の師匠は通称「御家彦(ごけひこ)」と称された人で、喜代松は、「職の盛りを殆んど維新の動乱期に過ごしたので、よい腕は持っていても、芸術には全く恵まれない時世だから洋紙へ地図の印刷をしたり、弟子を連れて横浜へ出向き、商品のレッテルを摺ったこともあった」と、幕末維新期の職人の仕事内容を示している。なお、喜代松は二つの位牌を大切にし、その一人が相弟子の「ホラ勝・空言日勝信士・柴田勝三郎・明治八年三月」、もう一人が名工として畏敬した「グズ安」で「酒好院錦裂信士・出羽安五郎・明治元年九月」であったとも語っている。その喜代松の子、市松は清方も評価する高度な摺刷技術者で、当代きっての名人。渡辺省亭と密接にかかわり『美術世界』の仕事が彼の力を示している(例として、〔図2〕『美術世界』第25巻奥付記載、〔図3〕に同号掲載の「楓樹群燕」)。また、明治後期の小説単行本には必ず巻頭に口絵(木版彩色口絵)が付されるという文化の仕掛け人も吉田市松(注11)であった。春陽堂に世話になっていたのだが、ある時に雇い主
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