― 127 ―を担当した。特に『文学世界』シリーズは「印刷者」として一手に引き受けている。明治23年『新作十二番の内・鎌倉武士』、住所は東京市京橋区采女町31番地。明治24年、『文学世界三巻・かくし妻』、『文学世界四巻・かた糸』、『文学世界五巻・辻占売』、『文学世界六巻・かくれんぼ』、『大通世界二巻・楠無題記』、『新作十二番の内・梅その』、『文学世界八巻・ひつじかひ』、『新作十二番の内・浦島次郎蓬莱噺』、明治25年『文学世界一〇巻・おもひ川』、明治27年1月2日発行『異国漫遊 瓜太郎物語』前後二冊(岡本昆石著)等の春陽堂の仕事例がある。⑻田村鉄之助は、代表的な木版複製摺刷師、特に『國華』の摺刷を一手に行い、主任となった。他に『美術世界』(渡邉省亭編・春陽堂)の第11巻(明治24年10月5日出版)から13号(1月30日発行)の3巻分を担当。「印刷者」としての住所は本所区千歳町二八番地。明治23年3月17日出版『菊地容斎翁画譜』(手書き題箋大本披見)臨者松本楓湖・印刷発行本間光則・剞劂人木邨徳太郎・印刷人田村鉄之助。他に教科書類の仕事もある。⑼小松角太郎は摺師で、春陽堂の『美術世界』第14巻(明治24年12月)から第16巻(明治25年2月)までの3号分を担当(彫は五島徳次郎)。⑽この広告文は、春陽堂刊行物の明治25年(1892)、6月の『奴の小万』(ちぬの浦浪六著)、7月の『美術世界』第18巻の巻末広告から同文を採録。⑾摺師 吉田市松(慶応元年生まれ―大正13年2月没)。『美術世界』(渡邉省亭編・春陽堂)第壱巻(明治23年12月22日出版)〜10号(明治24年8月25日出版)。第17号(明治25年5月20日)〜第25号(明治27年1月2日発行)「印刷者」で住所は東京市京橋区霊岸島浜町四番地、その居住地から「霊岸島の親方」と称された。特に明治20年代から40年代の木版口絵は市松及びその一門が手がけたとされる。春陽堂、博文館との出版と結びついた木版出版の摺刷を担当。例示として春陽堂『新作十二番』の内の、南新二著『鎌倉武士』(明治23年12月26日発行)印刷者として酒井留吉と担当(彫は五嶋徳次郎・安井臺助)。市松については面識のあった鏑木清方が『こしかたの記』に記している。父は摺師・吉田喜代松。晩年は越前堀に住いがあった。晩年の仕事例に、『研精画誌』第8号(明治36年1月25日発行)。巻頭口絵及び解説に「第一図(春郊)(彩色木版刷)河合玉堂筆/岡崎清次郎刻/吉田市松刷」として、解説末尾に「彫者と刷工とともに現今の名手にして、玉堂氏の妙技を能く再現したるは、吾人の大に称する所なり。」とある。なお、市松の長子は吉田峯太郎といい、陸軍中将で太平洋戦争時には第十三師団長、戦後は明治神宮に奉職。⑿『現代画集(卯月の巻)』(明治44年4月18日発行)、『現代画集(撫子の巻)』(同年6月18日発行)、共に春陽堂発行を披見。ここに記載の彫師名、摺師名を採録した。⒀西村熊吉は錦絵から創作版画まで、特に彫師伊上凡骨と共に洋画系画家との協業で新たな時代の版画表現をめざした当代摺師中の名人であった。文久元年(1861)生まれで、明治初年から実兄の栄三郎に摺刷技術を学び、「光線画」と称された小林清親の一連の新東京風景版画から明治錦絵の摺りに携わった。摺師吉田喜代松・市松親子の許で働き、主に春陽堂での仕事が多い。明治41年、「洋画の印刷」と題する談話が『趣味』(2月号)に掲載され、『明星』、白馬会機関誌『光風』の木版挿絵を担当し、三宅克己の『三宅画譜』、中澤弘光の『富士十二景』等の摺を行ったこと、日本画のものと西洋画のものでは摺りの手順の違うこと等を語っている。長寿で昭和8年(1933)には東京都下谷区池之端仲町五に「西村熊吉版刊行会」が結成され73歳であった。しかしその後のことが不明で没年も判っていない。『浮世絵芸術』では「摺師熊吉昔噺」として昭和8年3月(第2巻第3号)、4月(第2巻第4号)、7月(第2巻第6号)の3回にわたって西村熊吉の談話を掲載している。
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