― 131 ―前田賢太郎、伊藤忠次郎、前田雄次郎が名を連ね、摺師の本橋貞次郎が印刷を担当した〔図2〕。本橋はこれ以前から、画家・舞台美術家として名高い久保田米齋(1874−1937)の主導のもと大正前期より風俗絵巻図画刊行会から刊行された絵本の復刻版や、画集『芸苑心賞』(全12冊 大正4〜7年刊)の印刷工として腕をふるった名摺師として知られる(注3)。この『芸苑心賞』を刊行した美術書出版社である審美書院に、大村西崖は明治39年(1906)より編集主任の職に就いていることからすれば(注4)、本橋はその実績を買われただけでなく、大村とのつながりによって、この叢書の印刷工に起用されたと考えられる。これら以外の4種は、いずれも中国で印刷がなされている。これらの書籍は、日本で復刻された刊本がそうであったような版木からの復刻とは異なり、原本の景印(写真撮影)による復刻がなされた。奥付の記載によれば、これらの書籍は、「上海美術工芸製版社」なる会社が印刷を担当している〔図3〕。この会社は、技師小林榮居が興した日系企業である。小林は当時の上海において名の知られた印刷工であり、上海を中心とする収蔵家が所蔵する書画のコロタイプ版画集の製作を数多く委託されている(注5)。上海で印刷された書籍はいずれも、原本が中国で所蔵され、原本の運搬における安全性と利便性を考慮し、同地で印刷されたものと推定される。以上挙げてきた概要より、この『図本叢刊』は、刊行の初期段階においては日本に所蔵される漢籍を原本として用いて復刻を行い、その後中国で所蔵される原本を用い、最後は再び日本に所蔵される原本の復刻を行う、という過程を経て形成されたことが理解される。これら復刻された刊本の原本の所在をさらに細かく見ていくと、本叢書の第1種『蘿軒変古箋譜』は、本書に添付された報告によって、大村が奉職する東京美術学校の所蔵本を用いたことが分かる(注6)。また第4種の『程氏墨苑』も、東京美術学校に同様の書籍が収蔵されていることから、この書籍を用いて復刻したことが推測される。いいかえるならば、本叢書の刊行の最初期においては、大村が簡便に入手できる、極めて近い範囲で所蔵される漢籍を蒐集して復刻が行われているのに対し、そのわずか半年後に刊行された『列仙酒牌』以降の4種の復刻においては、その範囲が急激に拡大し、海を隔てた中国において所蔵される原本にまで及んでいるのである。このような復刻と刊行を行うのであれば、当然のことながら中国の原本所蔵者と日本の刊行者との繋がりが必要となることが推察される。この問題を検討するにあたっては、この叢書を編纂するにあたり、原本を蒐集した大村西崖が、当時いかなる活動を行っていたのかを知ることが、大きな手がかりを提
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