― 132 ―供することとなるだろう。以下では大村の中国の人士との繋がりを探ることで、本叢書の刊行の背景を見ていくことにする。二、『図本叢刊』刊行の背景『図本叢刊』の編集と出版を担当した大村西崖(号帰堂・無記庵)は、明治元年(1868)に、遠江国富士郡加島村(現在の静岡県富士市)に生まれた。明治26年(1893)に東京美術学校彫刻科を卒業し、学校教員や美術書の編集者などを経た後、明治29年(1896)に東京美術学校の助教授に就任、明治38年(1905)には教授に昇った。昭和2年(1927)、病により死去。享年60。大村は『支那美術史彫塑篇』や『密教発達志』などの大著を筆頭に、当時の学者の中では例外的といえるほど浩瀚な著述を成したことで知られる。大村の東洋美術に関する著述は、日本のみならず中国でも早い時期から知られていた。明治43年(1910)刊行の大村の著作『支那絵画小史』(審美書院)は、同年には大村と親交のあった中国人張鈞一によって『絵画小史』として漢訳化された。また大正10年(1921)刊行の『文人画の復興』(又玄画社)も、翌年上海中華書局より『中国文人画之研究』として翻訳出版されている。このような大村自身による著述のほかにも、彼はその生涯にわたって多数の書籍の編集に携わっている。『図本叢刊』は、こうした大村の編集事業の集大成ともいうべき時期に編纂された叢書である。そして注目したいのが、この『図本叢刊』の編纂時期が、大村による中国視察旅行の時期、とりわけ第2回の視察旅行の前後と重複していることである。大村にとって初の中国への視察旅行は、大正10年秋に開始された。この視察旅行で大村は、朝鮮を経由して北京に入り、溥儀の側近で、李公麟「五馬図巻」や徽宗「臨古巻」など清朝内府旧蔵の文物を多数私蔵していた陳寶琛(1848〜1935)や、金の章宗の系譜に連なる名族の完顔景賢(1875〜1931)といった、当時の中国を代表する収蔵家のコレクションを直に観覧し、写真に撮影している。これらの写真は帰国後、「西崖将来支那名画写真展」に出品された。また4ヶ月にわたる北京、天津、南京、上海への旅行で大村は、当代の中国画人と交流を結び、その作品を購入して日本に持ち帰り、東京と大阪で展覧している。この展覧の後に大村は、出品作品の図録を作り、『禹域今画録』(1922年序)と題して刊行した。この本に掲載される画家は総勢43名にのぼる。大村が中国でいかに多くの画家たちと交流を持つことができたのかを見て取ることができる。そしてこの第1回の中国視察旅行からおよそ1年を経た大正12年(1923)1月よ
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