鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 133 ―り、『図本叢刊』の刊行は開始されているのである。先述のとおり、『図本叢刊』の最初期の刊行書には、大村からごく近い範囲で入手できる原本が用いられている。しかし、同年6月に刊行された『列仙酒牌』が上海で印刷されていることを鑑みれば、すでに第1回の中国旅行の際に、現地における原本の蒐集、及び復刻作業の段取りは済まされていたと考えるのが自然であろう。こうした見地より注目したいのが、大村と唐熊(字 吉生 1892〜?)との関係である。唐熊は民国期における海上派の画家としてその名が知られる。この唐熊が、『図本叢刊』第5種『列仙酒牌』の原本所蔵者であることは、本書の巻末に附された跋文の記述より知ることができる〔図4〕。この跋文中、唐熊は大村を漢学に通じた博学の士であり、善本を蒐集復刻して広く世間に流伝させようとする彼の行為をまことの盛挙であると褒め称え、それゆえ原本を貸し出したのだとある(注7)。唐熊が大村に貸した『列仙酒牌』は、海上派の祖として著名な任熊(字 渭長 1823〜1857)が原画を描いたものだということからすれば、彼が本書を大村に貸し出したのは、自身の画派に対する自負心ゆえとも見なすことができよう(注8)。唐熊の『図本叢刊』への関わりはこれのみにとどまらない。『列女伝』、『素園石譜』、『劉向列女伝』といった、上海で印刷された3種の刊本の題籤は、全て唐熊の揮毫によるものである。唐熊は、『禹域今画録』に、彼の略伝と「菊竹図」1幅が掲載され、すでに第1回の中国旅行時には大村との交流のあったことが示唆される。さらに重要なのは、大正12年4月に挙行された第2回の中国旅行において、唐熊が重要な役割を担っている点である。この回の視察旅行における大村の最大の目的は、「西湖有美書画社(日支美術倶楽部)」の設立であった。これは、日本と中国両地域の画家の親善を目的とする美術クラブとして杭州の西湖畔に建設されたもので、すでに第1回の中国旅行時にその計画が立ち上がったものであるという。また当地での業績が成功した暁には、天津や北京にも同様の建物を建築することが計画されていた(注9)。現地での活動については、大村が東京美術学校校友会に送った手紙に詳細が記されている。海上平穏湖水を行くが知■■■■く長崎より一昼夜にて着港仕候、翌日呉昌碩王一亭等早速来訪、其夜二家の外唐吉生等上海の画家十余人にて招宴あり、西湖有美書画社一名日支美術倶楽部の発起人に推され候、(中略)今夜唐吉生と共に抗■■■■州に至り、明日倶楽部建築地検分の予定に候、云々四月七日。(下線部筆者)(注10)

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