鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 135 ―幅に及ぶ絵画を集め、これを売ることによって書画社の設立資金に充てることが記されている。さらにこの書簡に、唐熊が「高氏」の所蔵する絵画を「小林君」に託して撮影させた旨が報告されている点も注目に値する。この「小林君」が、上海美術工芸製版社の小林榮居であることは明らかである。先述のとおり上海美術工芸製版社は、上海で復刻された『図本叢刊』所収書の印刷を一手に担っていた印刷所であることからすれば、唐熊が『図本叢刊』の上海での印刷にあたり、なんらかの形で関与をしていた可能性は極めて高い(注13)。このように、『図本叢刊』の上海における印刷事業には、唐熊が大きく関わっていたことが推測される。当時30歳代前半と、比較的年齢の若かった唐熊は、西湖有美書画社設立に向けた資金調達や土地差配、そして『図本叢刊』の印刷刊行といった、実務的な仕事を任されていたものと推測される。また唐熊のほかで、『図本叢刊』と関係のある上海の人士として挙げられるのが、海上画派の大家として名高い呉昌碩(1844〜1927)である。呉昌碩は、『列仙酒牌』刊行にあたり、その書の封面の題字を揮毫している〔図5〕。日本で刊行された最初期の4種は、日本の美術行政の牽引者のひとりであり、大村とも深い親交を結んでいた東京美術学校校長の正木直彦(1862〜1940)が題字を揮毫していたが、これ以降に刊行された題字は全て呉昌碩の手によるものとなっている。この題字の揮毫がなされたのは、款記によれば1923年3月で、同年4月に行われた大村の第2回中国視察の直前である。呉昌碩は、唐熊と同じく西湖有美書画社の設立者のひとりであることからすれば、大村は上海における自身の人脈を用い、中国画壇の領袖である呉昌碩に乞うて題字の揮毫を依頼したのだと推測することができよう。また『列仙酒牌』の題箋も、その特徴的な字体より、呉昌碩によるものと考えられる。 以上より、『図本叢刊』の上海における復刻印刷の背景には、西湖有美書画社の設立に関わる、大村と上海の人士とのつながりが存在することが明らかとなったのである。 三、『図本叢刊』刊行後の復刻計画『図本叢刊』は、大正15年(1926)9月に刊行された『顧氏歴代名人画譜』第4冊をもって終了した。この間に大村は、さらに3度に及ぶ中国視察旅行を行い、中国美術に対する深い知見と、中国人の知己を得ることとなった。こうした経験によるものか、大村は、『図本叢刊』に続く絵入り漢籍の復刻叢書の編集を構想していたようである。

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