― 136 ―『図本叢刊』は、大村と上海の人士とのネットワークによって構成されたが、これに続くものと見なされる復刻叢書の中核を担ったのは、北京周辺の漢籍コレクションであったと考えられる。ここで大村の漢籍蒐集の手助けをしたと考えられるのが、北京在住の古籍収蔵家として名高い王立承(字 孝慈 1883〜1936)である。王立承が民国14年(1925)9月に大村に宛てた手紙の中には、彼が『図本叢刊』から復刻されたばかりの『顧氏歴代名人画譜』の入手を大村に依頼するとともに、北京の書肆で見つけた『人鏡陽秋』22巻、及び『北調詞曲』4巻を「図絵籍中の上駟と称するに堪う」ものとし、購入を勧めている(注14)。更に民国15年(1926)春に送られた手紙には、大村から贈呈された『顧氏歴代名人画譜』に対する感謝の弁と、同じく『図本叢刊』より刊行されたばかりの『蕭尺木離騒図』の入手を懇願するとともに、先の書簡中で購入を勧めた『人鏡陽秋』の価格交渉の仲介をするほか、計400巻以上にも及ぶ大部の『六芸之一録』や、『黄虞禝書目』23巻、そして故事360図を掲載する『忠孝節義』の購入を勧めてもいる(注15)。大村が、このように絵入り漢籍を積極的に入手しようとする動きを見せていることからすれば、彼が新たな復刻本の制作を計画していた可能性は高い。大村周辺における漢籍復刻事業の計画は、単に絵入り本のみにとどまるものではなかった。大村の盟友である東京美術学校校長正木直彦の日記『十三松堂日記』の大正15年6月3日条には、正木が大村と、極めて重要な書物の復刻事業を計画していたことを示す、以下の記述を見出すことができる。早夜大村西崖氏を訪ひ四庫全書転写の実行に付き意見を聞く。(注16)改めていうまでもなく、ここで転写の対照となった『四庫全書』とは、清王朝第六代皇帝高宗乾隆帝(1711〜1799 在位:1735〜1795)の勅命のもと、中国全土より採集された善本3500余種を収録した、中国史上最大の叢書である。この『四庫全書』は散逸を避けるため、正本7部が作られ分置されたが、アロー戦争や太平天国の乱といった清末の混乱によって、完全な形で残るものは、文淵閣本と文津閣本の2部のみとなっていた。この前年から正木と大村は、北京大学の要請を受け、散逸の危機にある中国美術の保存を目的とする「中国古美術保存調査会」の設立に向け、運動を行っていた(注17)。正木と大村が期した『四庫全書』復刻も、失われつつある中国文化の保存に向けた日本側の動きの一環と見なすことができるだろう。
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