注⑴ 大村西崖の事績については以下を参照。吉田千鶴子「大村西崖の美術批評」『東京芸術大学美術学部紀要』第26号、1991年。「大村西崖と中国」『東京芸術大学美術学部紀要』第29号、1994年、1〜35頁。下田章平「完顔景賢と大村西崖」『美術フォーラム21』26号、2011年、87〜91頁。塩谷純編『大村西崖の研究 研究成果報告書』東京文化財研究所、2012年。⑵ 同書に添付された刊行報告書には「著作者蘿軒姓は翁、名は嵩年、字を康詒と云ふ。蘿軒は其号なり。銭塘の人にして文章を以て東南に名あり。又画を善くす。(中略)清の康熙二十七年の進士なれば、此譜を画きて印行せるも康熙の晩年なるべし」とあり、大村は同書の著者を清の文人である翁嵩年(1647〜1728)と誤認していることがわかる。⑶ この時の本橋の肩書は、同書奥付に依ると「株式会社審美書院木版部第二工場主任」である。― 137 ―おわりに大村西崖による『図本叢刊』の刊行は、ともすれば彼自身の中国美術に対する嗜好によるものと理解されがちである。しかし、より大局的な見地よりすれば、稀覯な漢籍を復刻し、改めて公に提示することで、散逸しつつある中華文明の知を保存しようとする行為であったとも見なすことができる。こうした「中華の復刻」事業のある意味最終目的こそ、『四庫全書』の復刻であったと考えることができよう。しかし、大村の目指した「中華の復刻」の夢は、ついに果たされることがなかった。その最大の理由は、大村の早すぎる死である。大村は大正15年春に発病し、翌昭和2年(1927)3月8日に逝去した。享年60。大村の死後も、日中両国の美術界の交流は、上海を中心に行われていた。しかし、昭和6年(1931)に勃発した満州事変の影響で中国全土に抗日運動が拡がり、日中間の美術交流は急速に衰退する。『四庫全書』の全編影印という大事業は、大村たちが計画をしてから実に60年を経た後の、台湾商務院書館による『景印文淵閣四庫全書』の刊行(1986年)まで待たねばならない。ただし、大村が創り上げた道は、必ずしも完全に潰えたわけではなかった。民国23年(1934)には、近代中国を代表する文学者魯迅と鄭振鐸が、王立承所蔵の『十竹齋箋譜』の復刻を行っている。この絵入り漢籍の復刻事業は、後に鄭振鐸が編輯する『中国版画史図録』、『中国古代木刻画選集』、そして『中国古代版画叢刊』へと受け継がれた。先述の通り、王立承は大村のために北京における漢籍の情報提供と購入の仲介を行っていた人物である以上、彼が所蔵する『十竹齋箋譜』を復刻した鄭振鐸が、王立承との交流の中で『図本叢刊』の存在を知らされていた可能性は高いものと考えられる。こうした見地に立てば、『図本叢刊』は、1930年代以降の中国における絵入り漢籍の復刻事業の濫觴を成したものであると見なすこともできるだろう(注18)。
元のページ ../index.html#147