鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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3.感応山寺の復元けて沓を履き、大袖衣・鰭袖衣・袴・裙を着け邪鬼を踏む。右手に持物を執り(欠失)、左手は垂下し五指を広げて構える。頭体通して一木より彫出し、木心は後方に籠め、内刳りを施さない。左手は肩から手首までを一材製とし、手先は別材製とする。右手は手首まで一材製とし、袖先と手先を別材で矧ぐ。眉を寄せて目尻を吊り上げ、奥歯をかみしめて口をへしめた表情は、強く盛り上がった筋肉の微細な抑揚表現にも優れ、迫真的である。また胴部を強く引き締め体をやや捻って立つ姿には軽快さがあり、袖が大きく翻る動きも含め躍動的である。形式面では、高く鋭く襟を立てる形状は特徴的で、例えば奈良県・東大寺法華堂四天王立像、興福寺北円堂四天王立像など、奈良における奈良時代~平安時代初期の作例にみられ、すこぶる古様である。ゆるみのない肉身表現も含め、京都府・清涼寺四天王立像、島根県・万福寺の四天王立像など、9世紀後半の作例と近い表現で、このころの造像と考えたい。以上のとおり、隣接する二つの地区(旧御所村と旧星川村)に所在する薬師寺と大福寺には、平安時代前期から後期にかけて造像された9軀を含む合計10軀の古代・中世彫像が、集中して残されている。両寺ともに村堂(惣堂)としての性格を強く残し、さまざまな行事の場として現在も機能しており、地域住民を結ぶ紐帯としての役割を果たしている。このような集落によって守られてきた仏像は地域との関係性を失わずに伝来している傾向が強いが(注3)、ただし9~10世紀彫像の存在をもって、その造像時期と村落の形成時期を直接結びつけて捉えることは難しく、前身寺院の存在や、あるいは何らかの移動を経ていることが想定される。以下、両寺の仏像について、江戸時代後期に編纂された『紀伊続風土記』から、その伝来情報を確認する。まず薬師寺については『紀伊続風土記』御所村条に、「薬師寺/村中にあり、境内に般若経蔵及び釣鐘堂鎮守八幡宮あり、寺の坤少し離れて堂あり、此寺の本堂にて堂屋敷除地なり、本尊薬師外に地蔵勢至十二神将等ありて皆古仏なり、多くは星川の伽藍にありし仏を此に移せるなりとそ、地蔵尊なと他とつりあはさる大仏なり、根来寺の塔は覚鑁御所村の塔を移したるなりといひ伝ふ」とある。ここに記されるように、薬師寺の仏像の多くは「星川の伽藍」から移したとする伝承が伝えられている。続いて『紀伊続風土記』星川村の条には、「大福寺/東星川にあり、本堂僧坊経蔵等あり、寺より三町余未の方高き所に感応山という伽藍趾あり、夫より三町許小谷を隔て南の方に塔屋敷といふあり、何れも礎石など存す、旧弘法大師建立の寺なりしに、天正の兵火に焼失すとそ、今大福寺の本尊薬師如来は即古伽藍の本尊といふ、其余堂― 5 ―

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