可証を貰って、この頃ハ一週に三度はルーブルへ行く、そうして模写を始めた。中々面白くて有益、ルーブルで気に入りの大好きなものをこれから皆写して仕舞う筈、そうして自分の参考として一番有益、又本当に立派な模写としても価のあるものとして置く様に日本の博物館に後で保有されてもいゝ様にしつかりして居るので朝十時から四時までかいてる。」(注1)この箇所にはルーヴル美術館での模写を通じて古典研究に熱心に取り組み、古代の造形を芸術家としての血肉にしていった藤田の姿が彷彿としてくる。その一方で同じ紙面の左翼では、当時、モダン・アートの最前衛で活躍していたパブロ・ピカソを訪ねたことが詳細に綴られる。1914年当時、ピカソはモンパルナスのシェルシェール通り5番地に新居を構えて、キュビスムの実験の渦中にあった。「それから又こゝで一番新派の画家ピカソ氏も訪問、又リベラ氏モーラル氏等も訪問、お茶を御馳走になつたりしてる。本当に日本人で西洋人とどんどん‥交際してるのは他れも居らぬ。‥面白い事を自分の欲するものをしてる訳で実に自由にしてる、非常に‥有為にこれより出来ぬと言ふ勉強をしてる、どんどん有益な人とも交際してる、たしかに‥成功する。」(注2)(‥部は省略)藤田の芸術形成の一端に触れうるこの書簡は、1910年代前半におけるフジタをめぐる芸術的な環境を如実に物語るものとしてきわめて重要である。古典と前衛の双方に触れるなかで、自己を醸成しようとするこの観点は、後述するようにその9年後の1923年、代表作の《五人の裸婦》の制作時においてふたつの局面が露わになる。芸術家としての立ち位置を思索する言葉の数々も、書簡中の随所に登場する。渡仏直後の1913年10月29日(10月31日発信)の妻とみ宛ての書簡では、次のように述べる。「自分の今後かく画は日本画でも西洋画でもない‥西洋の材料を使つて一番深刻な自我を現はす画をかく‥そうして現はれてるものは自我の深い深い精神であって‥頭のよい程成功する。画は頭のもので手先のものではない。画家程世の中で高尚な職分はない。画家は職業ではない。人間の一番の生きてる内ての尤も人間としての価のある天の職だ。」(注3)東洋からやってきた画家が西洋の美術界でいかにして生きていくかという立ち位置や表現者としての方向性を早くも明らかにしており、その研ぎ澄まされた慧眼は、単身ヨーロッパに乗り込んでいった東洋人としての将来の戦略を見すえてのことであったともいえる。Ⅱ 初期の作風形成から─1917年の初個展でのパリ・デビュー藤田の初めての契約画廊となったのは、画商のジョルジュ・シェロンが1915年12月― 142 ―
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