鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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村にはフォン=ド=ゴームなど4箇所の遺跡があり、壁画の研究に勤しんだ。「原始時代の絵画研究出来た事は幸せだった」と追想しているように、その成果は曲線を多用したプリミティヴな造形や、輪郭のそばの背景を擦筆でぼかして際立たせる表現などに結実している。1917年の藤田のデビュー作は、古代や日本、先史時代、モダニスムなど多様な造形が混淆するイメージとして発信されたのであった。批評家や市民にも好意的に受け取られたこの初個展では顧客にも恵まれて、藤田はパリの美術界で幸運なデビューを果たした。渡仏以来4年にわたり、激動するモダン・アートの潮流のなかでの奮闘を経て形成された独創的なアイデンティティーは、東と西の接点に重きを置く藤田の出発点となって、1920年代に到達する東西の美意識の統合へと展開されていく。Ⅲ フジタとピカソ─《五人の裸婦》と《アヴィニョンの娘たち》をめぐって例えば、《五人の裸婦》の左から2人目の女がみせる腕を上げて膝を立てた特異な姿勢は、古代以来の「横たわる裸婦」、例えば、著名なジョルジョーネの《眠れるヴィーナス》〔図10〕の上半身を縦にしたような、きわめて特徴的な造形を示す。このポーズはフジタの図像展開のなかで様々に登場するものであり、同年の1923年の《腕を上げた裸婦》(横浜美術館)とも共通する造形であり、さらには源泉のジョルジョーネのように、《横たわる女》(1922年)や《横たわる裸婦(夢)》(1925年/国立国際1920年代初頭に始まる一連の裸婦像は、麗しい乳白色の画肌とともに藤田の名声を不動のものにした。黒い背景に白い裸体が浮かび上がる図像は、古代から連なる「横たわるヴィーナス」など西欧絵画の伝統を継承する一方、日本の面相筆を駆使した繊細な線描や幽玄な佇まいには東洋的な趣が託される。そして到来する1923年は、1931年まで9年間におよぶ「フジタの黄金時代」の幕開けを告げる年とされ、11月に開催された第16回サロン・ドートンヌには、横幅2mにおよぶ《五人の裸婦》〔図8〕を出品している。生涯を通じての代表作と目されるこの大作を検証してみるとき、1914年2月10日付の書簡〔図2〕にみられる古代と前衛とが切り結ぶ位相が鮮やかに浮かび上がってくる。渡仏直後の藤田はルーヴル美術館に通っては古代の作品の研究に励むなか、プリミティヴな美術やギリシャ、アッシリアなどの古代芸術に「東洋と西洋との芸術的な統合が見いだされるが、これこそ作品のなかで実現したかったものである」ことを感じとり、芸術家としての方向性を探りあてたことを追想している。《五人の裸婦》でも、居並ぶ裸婦たちが古代ギリシャ・ローマの彫刻〔図9〕や古典絵画に学んだものと思われる多様なポーズをみせる。― 144 ―

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