美術館)など、横に寝そべる姿でも多彩に変奏されている。さらには《五人の裸婦》には、これら古代からの図像伝統を継承する19世紀のアカデミスム絵画、例えばブーグローの《ヴィーナスの誕生》〔図11〕などからの示唆や意識も窺うことができる。中央のメイン・モティーフに、ギリシャ彫刻風のコントラポストのポーズを取る裸婦を配して、傍らには背中を向けた裸体のモティーフを侍らせる構成などは、ヨーロッパの観衆の意識に深く入り込んでいる共通の視覚言語ともいうべき「クラシックな形式」を活用していることが指摘できるだろう。その一方で、《五人の裸婦》を特徴づける奥行きの浅い空間に5人の裸婦が横に並ぶ特異な画面構成や、裸婦のポーズや造形の組み合わせなど造形的に検証してみると、20世紀絵画の発火点となったピカソの1907年の問題作《アヴィニョンの娘たち》〔図12〕を強く意識していたことが窺われる。とりわけ《五人の裸婦》の左から2人目の女がみせる腕を上げて膝を立てた特異な姿勢は、《アヴィニョンの娘たち》の左から2人目と右手前に座る2人の裸婦のポーズを融合させたような構成である。1914年2月の出会い以来、浅からぬ因縁のある藤田とピカソとの関係については、資料的な裏づけも含めさらなる検証が待たれる。とはいえ翻っていえば、《アヴィニョンの娘たち》にしても表現こそ革新的であるが、主題そのものは「裸婦の群像」という伝統にそったものであった。ピカソは、その伝統図像を活用しながら、そこにアフリカの黒人彫刻や仮面、イベリアの古代彫刻1907年に描かれた《アヴィニョンの娘たち》は、そのあまりの革新性から賛否の論争を巻き起こし、作品自体はピカソ自身の手で人目に触れないように封印されてしまっていた。しかし、その後、ピカソ自身の手によるキュビスムの創始と展開をはじめ、未来派の勃興、抽象主義の急速な展開、ダダイスムやシュルレアリスムの登場などアヴァンギャルドの嵐が吹き荒れて、美術表現はかつてない変革の時代を迎える。このような激動のなか、1920年代の初頭にいたって、《アヴィニョンの娘たち》はその冒険性の横溢において、20世紀のモダン・アートを切り開いた先鋭的な造形の嚆矢として位置づけられたのであった。そしてこの問題作が生まれて17年を経た1924年、シュルレアリスムの詩人で運動の主導者であったアンドレ・ブルトンは、ピカソの《アヴィニョンの娘たち》を「絵画を超え、過去50年間の歴史を描いた劇である」と賞賛し、美術コレクターのジャック・ドゥーセを説得し、ドゥーセはこれを30,000フランで購入したのである。1923年に藤田嗣治が《五人の裸婦》を描いた時期の美術状況には、ピカソの《アヴィニョンの娘たち》をめぐって、1920年代における再評価と脚光の機運が背景にあることは見逃せないだろう。― 145 ―
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