など「非ヨーロッパ的」な造形を導入して、西洋絵画に新機軸を切り拓いたのである。かたや東洋出身の藤田は、ギリシャ・ローマなどの古代彫刻や古典から近代へと連なるアカデミズム絵画といった、典型的な「ヨーロッパ古来の造形」を再構成して、そこに東洋的な感触や肌合いを加味して、東西の美意識を繋げようとした。すなわち西洋が非西洋を参照しながら新たな息吹を獲得し、東洋が西洋を活用しながら融合するという東西の価値が交錯する様態こそ、このふたつの大作を比較芸術学の見地から分析することで浮き彫りになってくる特質である。《五人の裸婦》と《アヴィニョンの娘たち》への省察が顕わにする東西の美の諸相は、20世紀初頭、美術や芸術の価値概念がきわめてボーダーレスな状態となって、相互にクロスリンクしていたことを示すものとしてきわめて象徴的である。藤田はこの《五人の裸婦》を描いた1923年は、藤田の黄金期の始まりとしても位置づけられる年であるが、それは多彩な古典検証を繰り広げた時期でもあった。1921年から本格的に展開された西洋古来の「横たわるヴィーナス像」の系譜を筆頭に、ヨーロッパの肖像画の伝統に則りながら東西の美意識を融合させるなど、藤田が西欧のクラシカルな型を活用し深化させる方角へと大きく舵をきった年として特筆されるべき年である。そこには西洋美術の起源たる古代ギリシャ・ローマなどへの参照が復活し、古代彫刻やその系譜上にある図像からの示唆や転用が頻出するようになる。確かに1920年代から1930年代初頭にかけて、古典への回帰志向は美術のほか文化全般の様々なジャンルに共通するものであり、根底には第一次世界大戦後のヨーロッパ社会にみられた古きものへの憧憬があった。しかしその背景には、「エコール・ド・パリ」をはじめとする芸術動向を取り巻くヨーロッパ社会の変化があったことを見逃してはならない。Ⅳ エコール・ド・パリの概念変遷とその時代背景をめぐって20世紀前半のパリに集った異邦人たちの一派を、「エコール・ド・パリ」と呼んだのは批評家のロジェ・アラールが最初であり、藤田が《五人の裸婦》を描いた1923年のことであった。この年、サロン・デ・ザンデパンダンでは、出品作家の展示の仕方をめぐって論争が起きた。それまで同展では1922年までアルファベット順に展示されていたが、会長だったポール・シニャックの意向などを背景に、芸術家たちを出身国別に分けて国籍順に展示するに至っている。これに対して、フランス国内外の芸術家たちは総じて抗議を繰り広げ、反対派の急先鋒だったフェルナン・レジェが同会を脱退してしまうという事態にまで発展したのである。さらに異邦人たちの芸術活動に対― 146 ―
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