して、フランス美術の伝統やアイデンティティーを守ろうとする排他的な反動も多く見られるようになる。例えばフランス人画家たちは母国の伝統を継承する「エコール・フランセーズ」(=フランス派)と位置づけられ、外国人たちによる「エコール・ド・パリ」(=パリ派)との作風や制作の姿勢が対比されるに至っている。多彩な芸術が咲き誇った1920年代当時のパリでは、ユダヤ系を中心とする異邦人芸術家による前衛活動に対して、保守的な陣営が嫌悪感を示し排斥しようとする動きが高まり、新旧の対立が激化して「外国人差別」や「異文化排斥」に繋がるような危うい状況が燻っていたのである。このような状況下でロジェ・アラールは、パリに定住してフランスと強い繋がりを示す外国人芸術家たちを総称すべく、「エコール・ド・パリ」という名称を使用している。「異邦人の芸術家が、独特の感受性や奇妙な想像力を我々にもたらしてくれることには感謝してもし過ぎることはないが、彼らが現代美術の動向を支配しているなどという野蛮な主張は、本当であれ見せかけであれ、いかなるものでも拒絶しなければならない。モンパルナス画派なるものが、外国でエコール・ド・パリ(盲目的な愛国心の疑いのあるフランス画派の名称)を自称しようとしている。」(ロジェ・アラール「美術─アンデパンダン展」『ラ・ルヴュ・ユニヴェルセル』1923年3月1日)(注4)さらに「アンデパンダン展論争」の翌年の1924年の冬、アラールはエコール・ド・パリに関して辛辣に述べる。「外国人の芸術家、少なくとも彼らの一部は、自分たちが我がフランスの現代画派に負っていることを忘れている傾向がある。彼らのほとんどはフランスに学んだにもかかわらず、フランス国外にエコール・ド・パリなるものの概念を広めようとし、そこでは、巨匠と先導者が、弟子と模倣者に、後者に好都合であるように混同されようとている。最もつまらない者たちが一番この混同に関心を示し、全力をかけてそれを押し進めることは十分に考えられることである。」(ロジェ・アラール「アンデパンダン展」『ラ・ルヴュ・フランセーズ』1924年2月17日)(注5)従来、わが国では「エコール・ド・パリ」という言葉を最初に使ったのは、批評家のアンドレ・ワルノーであると紹介されてきた。しかしながらワルノーが批評雑誌『コメディア』でこの動向について詳述する2年前の1923年にこの呼称を使ったロジェ・アラールこそ、エコール・ド・パリの概念の最初の提唱者であった。とはいえ、アラールがこの言葉を外国人芸術家たちに対する批判めいた観点から用いたのに対して、エコール・ド・パリの芸術家たちと親交のあったワルノーは好意的な論評を展開した。例えば1925年1月27日に発刊された『コメディア』1月号では、「“エコール・― 147 ―
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