⑷Roger Allard, « Les Beaux-Arts. Le salon des Indépendants », La Revue universelle, 1er mars 1923.⑸Roger Allard, « Le Salon des Indépendants », La Revue française, 17 février 1924.⑹André Warnod, Les Berceaux de la jeune Peinture. Montmartre-Montparnasse, Albin Michel Editeurs,注⑴1914年2月10日付書簡『藤田嗣治書簡─妻とみ宛─』「パリ留学初期の藤田嗣治」研究会ド・パリ”(=パリ派)は存在する。」と述べ、「いつの日か美術史の研究者たちがより的確にその特質を語り、そこに属する者たちが誰であるかを検証するであろうが、その一群が今日確かに存在することは明らかなのだ。そしてエコール・ド・パリというものを通して、フランスが世界中から芸術家たちを引き寄せる力があると断言できるのである。」としてパリに集った異邦人芸術家たちを総称し、彼らこそが「エコール・ド・パリというものの、絶対的な存在を明確にした」と述べている。ワルノーがこのようなエコール・ド・パリへの視座を体系的に示した名著が、『若き絵画の発祥地─モンマルトルとモンパルナス』(1925年/邦訳『絵画の揺り籃』)(注6)である。パリの美術界を活動の舞台とする外国人芸術家たちへの嫌悪や危惧を臭わせるロジェ・アラールとは対照的に、ワルノーは「エコール・ド・パリ」という名のもとに前衛美術を擁護する立場にわが身を置いた。異邦人たちによるその動向は、フランス美術によりよき効果をもたらしてくれる好機ととらえようとする肯定的な視座であり、あきらかにユダヤ人を中心としたグループに共感し協調する論調である。その背景には、第一次世界大戦後の外国人の大量移入に端を発する民族問題や、それまでもてはやされていた非ヨーロッパ圏の異文化に対する忌避など不穏な状況があった。エコール・ド・パリ全盛期のフランス社会を取り巻くこのような動向を鑑みるとき、藤田が西洋古来の系譜の再検証や回帰を通じて、ヨーロッパの古典形式を援用した1920年代前半の展開には、芸術を取り巻く時代の情勢に目を配り、鋭敏に感応しながら、ヨーロッパの美術界で生き抜こうとしたこの日本人画家の姿勢が鮮やかに浮かび上がってくる。Paris, 1925.2003年⑵1914年2月10日付書簡『藤田嗣治書簡─妻とみ宛─』「パリ留学初期の藤田嗣治」研究会2003年⑶1913年10月29日付書簡『藤田嗣治書簡─妻とみ宛─』「パリ留学初期の藤田嗣治」研究会2003年― 148 ―
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