鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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内の仏皆古仏にて地蔵尊なと最殊勝にて、不動は殊に威容あり、最大仏にて小堂に蔵むへきものにあらす、皆古伽藍の仏ならん、亦脇士広目多聞の二天は伽藍中門の仏なりといふ【感応山は古伽藍の時の山号、大福寺は伽藍の時の寺号なるへし】」とある(【 】内は割り書き)。ここでは大福寺から未(南西)の方向三町ほどのところに、かつて感応山と号した伽藍があり、大福寺に伝来した仏像もそこから移されたものだと伝承されている。また、大福寺はその感応山の山号を引き継いでいるとも語られる。このように近世における伝承ではあるものの、薬師寺と大福寺の仏像群について、ともに近隣にかつてあった感応山(星川の伽藍)と号する寺院から伝来したとする情報を確認することができる。江戸時代後期の段階では当該地に礎石が残されていたとも記されるが、現時点においては農地利用等のため攪乱されていることもあり、踏査や聞き取りにおいては明確な寺院痕跡は確認できない。ただし、御所地区の西端部に位置する北山(標高586m)の、北麓一帯の通称地名として「トウノオ」があり、またそのあたりが概ね先の史料にみられた感応山(寺)の付近でもあって、これを「塔の尾(あるいは堂の尾)」の意と捉えれば、わずかながら、寺院の痕跡を示しているといえる〔図11〕。感応(カンノー)という山名については、伊藤太氏による木津川市馬場南遺跡に所在した神尾寺の寺名についての検討が参考になる(注4)。伊藤氏は「神尾」は「カムノヲ」と読むべきで、「ヲ」は裾野を示唆する「尾」ではなく、山頂を示す「峯」の字があてられ、本来「神峯」、すなわち「神のいます峯」を意味したとする。そしてカムノヲは、カムノやコウノ、カモなどに音韻が変化し、神野・神於・賀茂(鴨)ほか各地の信仰の場に見られる名称も、これと同義とする。高野山麓の感応山についても、こうした事例と同様に、古代における聖なる峯をあらわした地名「カムノヲ」を語源としていると考えたい。なお、先に触れた北山は、その山頂が伊都郡と那賀郡の郡境となるランドマークであり、また万葉歌に歌われる紀伊国の妹背山のうち妹山が尾根続きにあって、畿内と南海道の境でもある象徴的な場である。山腹に先の伽藍を擁したこの北山を、感応山に比定しておきたいと思う。4.弘法大師御手印縁起の検討弘法大師御手印縁起とは、空海が丹生明神より広大な領地を得たことを示す諸縁起類の総称で、広義には太政官符案并遺告(高野絵図壱帖)、御手印縁起(山絵図壱帖)、遺告真然大徳等(高野住山料御遺記文壱通)からなる二帖一通を指し(さらに遺告諸弟子等を含む見解もある)、また狭義にはこのうち手印が捺されている御手印縁起の― 6 ―

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