鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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2,アントニ・デシャン訳『神曲』:浮彫から絵画へ一方、ダンテの煉獄篇では、〔資料〕に見られるように、同場面は大理石の浮彫の描写として組み入れられ、『神曲』に基づく過去の連作イメージの中でボッティチェッリやフェデリコ・ツッカリはダンテとウェルギリウスが絵画の前を歩いているかのような画面を表している〔図4〕(注4)。翻って、19世紀半ばのフランスでは古代ローマ主題は下火で、ダンテに取材した絵画といえば地獄篇の「パオロとフランチェスカ」と「ウゴリーノ」が中心であった。ドラクロワは、それまで距離を置いていた古代ローマという舞台に加え、『神曲』主題としても同時代に類をみない大画面作品を表したこととなる。ジョーバンの指摘以来、ドラクロワから友人のフレデリック・ヴィヨに宛てた1834年10月の書簡にダンテと仏訳者デシャンの名が現れ、『神曲』煉獄篇第10歌を示している可能性から初期の着想源として有力視されている。「この世のものならぬダンテよ!あなたが送ってくれた僅かな詩行で私は涙せんばかりに感動しました。(中略)原文でこの部分を読んだことはありませんが、デシャンにおいて、とりわけこの部分の訳は非常に美しいです」(注5)ヴィヨの提示した部分が判別不可能なことから、ジョーバンも判断には留保を付けているもの、1833-35年に記されたドラクロワの「イギリスの画派」手帳には、同時期以降実際に手がけられる絵画や版画の主題を含む雑多なリストの中に、「内務省のために。殉教者たち、トラヤヌス帝」(注6)との記述があり、余白にもタッソーやスコットに続きダンテの名があることから、1835年以前の段階で、トラヤヌス帝の物語とダンテが近い関心の的になっていたことは相違ない。ルーアン美術館所蔵の関連素描のうち五点には1837年6月初旬の日付が入っているが、それ以前から構想を進めていたと考えられ(注7)、ルーヴル美術館蔵の素描の一つでは、リュクサンブール宮「王の間」の準備素描と《トラヤヌス帝の正義》の習作が同画面に現れる(注8)。1833年から37年の「王の間」の装飾にあたり、ふさわしい画題を探す中で、画家が「正義」に関連するトラヤヌス帝の物語を知り壁面装飾案の候補ともしていたと考えると「イギリスの画派」手帳の記述とも整合する。ドラクロワは生涯を通じてダンテに傾倒し、本作以外にも《地獄のダンテとウェルギリウス》(1822年、ルーヴル美術館)、水彩画《パオロとフランチェスカ》(1824年頃、― 154 ―

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