鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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ジョルジュ・ペブロー・コレクション)、《ダンテと偉大な詩人たちの霊魂》(1841-45年、リュクサンブール宮図書館)、晩年の《塔の中のウゴリーノ》(1860年、コペンハーゲン、オードロップゴー美術館)と繰り返し着想を得ている。また、テキストとの接し方からも様々な方向から詩人の創造性に迫ろうという飽くなき探求心が窺える。画業の初期には《地獄のダンテとウェルギリウス》に先立って地獄篇第3歌を試訳し、ピトリによる朗読を聞きながら制作に励んでいた(注9)。地獄篇や煉獄篇から原文を日記に引用して論じる一方で、ダンテの翻訳情報を書きとめ(注10)、1850年代を過ぎるとダンテの翻訳不可能性を繰り返し指摘するのである(注11)。では、《トラヤヌス帝の正義》における画家とテキストの関わり方はいかなるものだったのだろう。1829年に地獄篇34歌、煉獄篇33歌、天国篇33歌の中から計20歌と断片を所収する韻文の抄訳として出版されたデシャン訳は、1811-13年の散文完訳を始め19世紀に出版された複数の翻訳と比較して、三部作から採録されたエピソードが幅広く、地獄、煉獄、天国篇それぞれの世界観を図式的に包摂したリトグラフの挿絵〔図5〕から全体を把握する意識が窺われる(注12)。なにより、「研究書であることではなく芸術作品であることを意図」(注13)したと序文に明文化されるように、注釈なしで楽しめる韻文仏語訳としての完成度を備えていた。オリジナルもかくやという仏語訳の喚起力に、ドラクロワは大いに刺激を受けたのである。それを明白に示すのが、皇帝と寡婦の会話を網羅するリヴレへの引用である。ドラクロワが記載する作品情報として例外的に長いのみならず、絵画の記述に相応しからぬ複雑さを持つ対話は、先述の通り大理石の浮彫をダンテが描写したものである。その絵画化は、単にテキストから着想を得た絵画でなく、神の手になる彫刻を描くことを意味する。煉獄第十歌でダンテの目の前に展開される浮彫は「人々が歌っていた!驚くべき不思議である!そうだ、と私の目はいい、違う、と私の耳は言った。香が煙っていた!そして視覚と嗅覚がまた同じように言い合いに専心した。(〔資料〕下線1)と、五感の垣根さえ越えて心を動かす力を持っていた。画家はこうした主題物語の前後を踏まえ、ダンテの綴る現世に存在しない浮彫を頼りに、非の打ちどころのない絵画を構想したのではないだろうか。彫刻を制作することのなかったドラクロワにとって、1830年のミケランジェロ論で絵画と彫刻がほとんど区別せず論じられるように(注14)、絵画と彫刻は文学とコントラストをなす造形芸術の境界内で捉えられている。彼は《トラヤヌス帝の正義》と同時期の「王の間」で、石彫を思わせるグリザイユで寓意像を表すが、今回はその逆に、浮彫や版画から音や動きの溢れる細部を参照し、彩り豊かに画面に取り入れた。― 155 ―

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