鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
167/620

ここで、先ほどのデシャンの詩節の送り主である友人ヴィヨとの協力関係をつぶさに調べてみたい。ドラクロワは1830年代より1850年代までヴィヨと親交を結んでおり、書籍や制作関連の小物を貸し借りし、あるいは過去の巨匠やフレスコ等の技法について情報を共有していた(注20)。1838年9月13日には、新たに注文を受けたリュクサンブール宮図書館の図像プログラム作成の手助けを依頼し、《トラヤヌス帝の正義》に関しても、1839年11月4日の書簡で、背景の建築と群衆の参考となりうる版画を求めている(注21)。こうした作品の中枢への友人の関与は、リュクサンブール宮「王の間」以来継続的に行われてきた(注22)。ヴィヨの回想からは、ドラクロワがリュクサンブール宮図書室の注文を受けた際に、「彼は私に問いかけ、計画を練らせたり紙に殴り書きをさせたり、古典ギリシャ語やラテン語からその場にふさわしい格言や文章を探させた」(注23)と、関連する情報を求め教養あるヴィヨに頼る様子が見え、それが度々行われていたこともわかる。中でも、注目すべきは1839年1月20日の書簡でのドラクロワからヴィヨへの以下の依頼である。「私はディドロの中に、「野獣の牙の下で息を引き取るコンモドゥス」という主題の記述を見つけました。詳しく教えてもらえませんか。(...)もう絵画が目に見えるようです」(注24)この主題は、ディドロの「絵画についての試論」の一部で、「構成」について書かれた章でみられるものである。「コンモドゥスが野獣の餌食になるところを、見せてくれ。きみの画布の上でかれの身体が牙にかけられて引き裂かれるところを見たいものだ。その屍体の周囲に、恐怖と喜びのまじった叫び声があがるのを、聞かせてほしい。悪人と神々、運命に対して、善なる人の復讐を遂げさせよ」(注25)当該部分は、当時出回っていたネジェオン版のディドロ全集ではアレの《トラヤヌス帝の仁徳》への批評を含む「1765年のサロン」と同じ10巻に所収され、丁度ヴィヨが1798年出版のこの版を所持していたことが蔵書売り立て目録から明らかである(注26)。さらに、ひと月半後の書簡でドラクロワは、友人のピエレに、ディドロの本を可能な限り持ってくるようにとヴィヨへの伝言を頼んでおり、アレに関するディドロ― 157 ―

元のページ  ../index.html#167

このブックを見る