の批評を参照しやすい環境におり、興味も持っていたことが分かる(注27)。先ほどのヴィヨの回想の続きでは、ドラクロワがあらゆる可能性を考慮して絵画の欠陥を未然に防ぐべく、たびたび想像力で彼に劣る友人に敢えて構想を練らせていた様子が語られている(注28)。であればこそ、ドラクロワが自らの作品に下される批評を先取りするように、ディドロのサロン評を熱心に参照して具体的な構想のヒントを得たと考えるのは極めて自然であろう。なお、コンモドゥスは賢帝マルクス・アウレリウスの息子であることから、引用部分は後の《マルクス・アウレリウスの死》(1845年、リヨン美術館)を想起させる他、この主題が、鑑賞者の感覚に訴える徳の高い場面を描くことを推奨する段で登場し、「善人による復讐」等の言葉が現れる点で《トラヤヌス帝の正義》と親和性がある。「恐怖と喜びのまじった叫び声を聞かせてほしい」という、ディドロの聴覚に訴えかける表現は、浮彫を前に歌が聞こえると記述するダンテにも通じる。ドラクロワは、単にサロンを参照するだけでなく、ディドロの絵画論で推奨される感覚に訴える表現をも追及したと考えられるのである。さらに、詳細に描きこまれた背景建築の凱旋門についても舞台芸術家シセリに加えヴィヨの協力を考慮すべきである(注29)。ドラクロワは、しばしば建築要素の入念な素描を残しているが〔図10〕、ルーアン美術館所蔵の凱旋門の素描〔図11〕は、《トラヤヌス帝の正義》完成作と全く同じ角度で細部まで寸分違わぬ門の輪郭線が定規を用いて正確な遠近法で示される珍しいものである。先述のヴィヨの蔵書売り立て目録に記載されたジョーラによる遠近法の概説書には、この凱旋門と同じ視点で開口部や柱を表した図版がみられ〔図12〕(注30)、また、別の個所では《十字軍のコンスタンティノープル入城》のエスキス(1839-40年、シャンティイー、コンデ美術館)の背景建築と類似したアーチの並びたつ回廊の図版が所収されている。これらからは、同時期にドラクロワが今まで以上に堅固な空間構成を行うべく、理論書にも学んでいたことを知ることが出来る。「王の間」以来の舞台美術家シセリとの関わりについては、稿を改めて論じたい。結び以上のように、ドラクロワは、新機軸である古代の歴史を扱った《トラヤヌス帝の正義》を、神の手になる浮彫を描写したダンテの煉獄10歌のデシャン訳に触発されて描いた。そこで、耳に聞こるかの喧騒と、複雑な対話を絵画表現とすべく、古代美術に基づく版画を積極的に参照して画面を彩った他、正確な遠近法や、ディドロのサロ― 158 ―
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