ことを指す。全て空海没後に作成された偽文書であるが、中世の高野山ではこの縁起を根拠に寺領荘園を拡張し、また地頭を排除して一円支配を実現させるなど、イデオロギー支配の装置として極めて重要な役割を果たした。成立時期と成立背景については諸説あり、寛弘元年(1004)ごろに阿帝河荘の領有をめぐる石垣荘との紛争に際して作成されたとするものと(注5)、大師の手跡として寛治2年(1088)高野に登山した白河上皇へ献上するため、11世紀末ごろに成立したものとする二つの説が有力である(注6)。弘法大師御手印縁起中に含まれる諸史料には高野山の領域(聖域)の四至が記されるが、その西限については次のように示される。まず太政官符案并遺告中に収載される文書のうち、弘仁七年七月八日大政官符には「西限応神山谷」、承和元秊十一月十五日大師御遺告文には「西限応神山谷」と「西至星川神勾谷」、延暦十九年九月十六日宣命文には「西限応神山星川神勾」とある。また御手印縁起中では当山四至注文三通があり、順に、①「至上登日丹生津姫命及御子所付属山地四至/東限大日本国、南限海/西限応神山谷、北限日本河/事情注遺告文」、②「誉田天皇定境四至/東限丹生川上、南限当河南横峯/西限神勾星川、北限吉野川/具註丹生氏天平十二年籍文并祝相伝祭文」、③「官符所載四方高山/東高山摩尼峯 大日本国、今大和国名也、紀伊国境山也、謂丹生川川上是也/南高山当河南長峯 謂阿手河南横岑是也/西高山応神山 謂神野山神勾谷及生石岑是也/北高山宇由峯 謂丹生北吉野川南岑是也、又云槙尾」とある。大きく分類すれば、西の限りを「応神山(谷)」とするものと、「星川神勾(谷)」とするもの、そして両者が混在したものがある。注目されるのはやはり、本稿で問題としている感応山(寺)が所在した星川の地名がここに見られることである。星川とともに示される神勾は難読であるが、「カンノワ」などと読め、「カムノヲ」に近い。特に重要なのは、③に示したように西の限りとなる高山・応神山は神野山ともいう、とする記述である。前章に示したように、神野という山名はカムノと読むことができ、そしてこれは「感応」の読みに通じる。従来、弘法大師御手印縁起に示された高野山の聖域の西端である応神山(=神野山)の比定地について検討されることはなく、不明のままであった。しかし、現在薬師寺・大福寺に分蔵される平安時代の仏像群を確かな思考の核として、近世史料により復元される感応山(寺)の存在を踏まえれば、これが現在の星川・御所地区近辺であったと捉えることが可能であると思われる。太政官符案并遺告(高野絵図壱帖)収載の絵図〔図12〕を見てみると、星河谷と、― 7 ―
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