鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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1 波及の考察─新南画の初期相(1:紫紅の作風とその波及)研 究 者:京都府教育庁指導部文化財保護課 技師  中 野  慎 之はじめに 問題の所在新南画は大正期における南画(注1)再評価の潮流として知られる。以下の文章は新南画を論じる同時代の批評文として最も著名なもので、大正6年(1917)『中央美術』7月号(南画特集号)の冒頭に「新南画の機運動く」の題で掲げられた。 所謂現代南画家の作品を求むるもの多くは形式を購ふもので、それを顧客とする画家の多くもまた形式のみを新造する芸人の亜流である。之れ固より新機運促進の原動力でない。真の南画を創作せんとするものは南画の教習を経ざる青年芸術家と覚醒した少数の大家とである。而して之れ等の大家また南画以外の地に育つた人のみである事に興味もあれば教訓も宿つて居る。 新南画を!之れ現時日本画界の若い作家の胸中に漲り起る声である。これを進路の目標として居るものは少なくない事と思はれる。故今村紫紅の如きは之れが先駆者の一人と云ふべきものであつた。文章は続いてこの「新しい南画を作らんとする運動」を担う画家を列挙し、機運興起の意義を論じている。この新南画の隆盛は日本における西洋美術の受容や個性主義を基準とする中国画評価、東洋美術至上主義の展開などと密接に関わることから、学術的な関心を集めてきた(注2)。他方、絵画表現上の展開については過程的に把握することが困難であり、特に形成期については不明な点が多い。本稿はこの課題を念頭に、先駆者である今村紫紅について考察し、新南画の成立を論じるものである。特に紫紅が歴史画から大きく作風を転じた大正元年(1912)第6回文展出品作の「近江八景」〔図1〕制作前後に注目する(注3)。まず新南画の形成における紫紅の重要性を改めて確認し、その上で当該期の南画をめぐる動向の把握を試みる。これを参照しつつ紫紅の画業を再論することで、新南画成立について検討を加えたい。初期新南画の主調をなした組織に、今村紫紅が松本楓湖塾の後輩たちと結成した赤曜会がある。目黒の吉田家(弥一郎と三男幸三郎)の支援をうけて同家を拠点とし、― 164 ―⑯新南画の成立と展開

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