鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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牛田雞村、小茂田青樹、小山大月、富取風堂、黒田古郷、速水御舟、岡田壺中(以上同門)、小林古径、中村岳陵が参加した。大正3年(1914)末に結成、大正5年(1916)2月の紫紅の死去までを活動期間とし、大正4年(1915)に4度の展覧会を開いている。紫紅の影響下、発表された作品の多くが同一の表現傾向を示しており、当時の展覧会評にはすべて同一人物の作品に見えるとの批判さえ見られる(注4)。一例に大正4年2月の第1回展に出品された紫紅の「南風」〔図2〕と御舟の「隠岐の海」〔図3〕を見れば、俯瞰構図・没骨の描写・点描と線の反復・潤渇の強調・明朗な色彩など、多くの要素に共通点が認められる。これらは他の作品にも看取される共通の特徴である。紫紅の絵画表現は赤曜会結成以前から広く波及している。例えば前田青邨の場合「湯治場」(大正3年)、「朝鮮の巻」〔図4〕、「京名所八題」〔図5-1〕といった例年の院展出品作は赤曜会出品作と同様の表現を見せている。特に俯瞰の構図が一層強調されており、そのために新奇な表現として鑑賞されたことが、飛行機からの視点を連想する批評・感想等によって確認される〔図5-2〕。また作品構想そのものも紫紅の影響下にあった。「朝鮮の巻」と「京名所八題」はそれぞれ紫紅の「熱国の巻」〔図6〕と「近江八景」を念頭においた作で、前者は紫紅の勧めによる旅行の成果である。「熱国の巻」は紫紅が大正3年に東南アジア・インド・中国・朝鮮を遊歴した成果で、過剰なまでの濃彩と装飾表現を見せることで知られた。紫紅が形成した作風の波及について他の例を見ると、例えば紫紅が横山大観、下村観山、小杉未醒と合作した「東海道五十三次合作絵巻」〔図7〕はすべての画家が同傾向の表現をとっている。やや画趣を異にするものの、富田渓仙の「宇治川之巻」(大正4年)や「沖縄三題」(大正5年)、速水御舟の「洛外六題」(大正6年)もその後の一展開として位置づけるべきもので、特に後者は新南画として賞賛もされている(注5)。こうした日本美術院での波及と社会的評価の獲得については、院展審査の場における紫紅の動向にも留意すべきであろう(史料①)。初期新南画の基調となったのは紫紅に由来する赤曜会諸作の絵画表現であったが、紫紅自身の絵画表現がこの作風へと変容する画期が「近江八景」である。先に列挙した赤曜会画家の多用する表現はすでにこの作で示されており、多岐にわたる筆致・構図は実験的な印象を与える。ここでは本作の史的位置に言及する同時代の言説として、黒田鵬心の紫紅追悼展(大正5年6月)の評を紹介しておきたい(史料②)。黒田は、大正元年の発表時には強烈な作と感じた「近江八景」が、紫紅が没した大正5年には通途な印象へと転じており、その絵画表現が「今日の傾向の先駆」であったか― 165 ―

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