2 時代背景の考察─明末清初期諸家とPost-Impressionistsの受容紫紅の西洋画理解と明清画学習はいずれも新南画成立を考察する上で看過しえないが、史料に恵まれず、先行研究は上述の回想を紹介するに留まらざるを得なかったと言える。以下ではこの課題を出発点に、若干の新資料を加えつつ、一度この大正改元前後の南画をめぐる動向について把握を試みる。(1:明末清初期諸家とPost-Impressionists─関如来の文筆活動) らであると論じる(注6)。発表当初における急進性は、紫紅から多大な影響を受けた牛田雞村が制作時に下画を見た折「破天荒な構図を奇怪に感じ、其意図の盛なのに驚いた」(注7)という事実からもうかがえる。なお、この紫紅追悼展では紫紅の代表作が発表順で一堂に陳列された。新南画を論じる言説が増加したのは大正5年前後のことであることをふまえれば(注8)、本展もまた紫紅の画風が急速に「南画的」へと変じた状況が時系列的に把握される好機となり、新南画の盛行を論じる言説を促したと推察される。(2:紫紅の南画評価とその波及)続いて紫紅の作風の波及に伴い南画への関心が高まったことを確認したい。紫紅周辺における従前の南画観については牛田雞村の回想が参考となる。雞村は、弟子に粉本を手渡し模写をさせるという教育を行った松本楓湖画塾を回顧する中で、史料③のように南画を軽視した当時の実感を伝えている。そうした通念の中で紫紅は先駆的に南画への関心を深めた。紫紅の知己たる安田靫彦は史料④で、二人が大正改元前後(注9)に南画に着目した経緯を伝える。靫彦は、富岡鉄斎の作品を知ったことがその契機であり、等閑視された南画の真価を自分たちが見出したという自負があったことを回想している(注10)。紫紅の鉄斎愛好については種々の回想が知られており(注11)、これが周辺の青年画家の南画に対する関心を喚起したことを富取風堂が伝えている(史料⑤)。一方、史料⑥は紫紅の西洋画への関心に触れるが、特に御舟の述べる「南画と印象派とは一致したもの」という紫紅の主張が従来から強調されてきた。また、既往の研究では紫紅の中国画学習と周辺への影響が必ず指摘されてきた(史料⑦)。紫紅が影響を受けたとして具体的に名が挙がるのは、石濤、龔賢、八大山人、呂潜といった明末清初の諸家である。読売新聞の文学美術担当として知られる如来関巌二郎は、正員就任は固辞するも(注12)日本美術院設立に関わった人物であり、批評家として多くの日本画家と交流― 166 ―
元のページ ../index.html#176