した。関如来による積極的な明末清初諸家の紹介は一定の影響力を有したと思われるので、以下で史料を紹介したい。まず関は史料⑧のように、大正元年の批評文で石濤の画論を引用する(注13)。同時代美術をめぐる「固より模倣なく形似なくたゞ一人自己あるのみ」という理念を掲げるにあたりこれを援用しており、自らの絵画観との共通点を中国画論中に見出し、批評文に引いたと理解するのが自然かもしれない。また、翌年発表の随筆「宗右衛門町より」は友人との対話を記録する形式をとるが、ここで関は偉大な作として石濤や八大山人の山水を挙げ、賛辞を惜しまない(注14)。これが西洋との対比に導かれたものであることは同じ文章で史料⑨のように披露される対話からも推察される。関は、西洋美術が「事象の外観を精密に描写する」という「昏睡状態」から東洋画(特に南宗画)が従来から得意とする「霊心の把握」へと遅れて移行したと断じる友人の言に同意し、日本画家はそういった新参の動向に左右されず、漢魏六朝、さらには世界美術の「発足点」たるインド美術の研究を基礎に「世界の芸術を征服する底の大気魄を以て努力」するがよいと述べるのである。西洋美術思潮の受容をめぐっては『白樺』周辺の動向を中心に研究の蓄積があり、新南画成立もこれに支えられたものとして論じられてきた。とりわけここで参考となるのが世界的文脈に重心を置いた稲賀繁美氏の考察であろう(注15)。『白樺』によるセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンらの紹介について、稲賀氏はこれが欧州におけるPost-Impressionistsという歴史的概念(共通理解)の形成と同時期のことであることに着目し、高階秀爾氏の指摘をふまえ(注16)彼らがその「歴史的意味を理解できなかった」からこそ共時的受容が可能になったとする。さらに稲賀氏は、「表現」と「約束」をめぐる「絵画の約束」論争の最中であったこともあり、柳宗悦が換骨奪胎し(注17)、追って木村荘八が全文を翻訳した(注18)ルイス・ハインド『The Post-Impressionists』(ロンドン、1911)の「恐ろしく乱暴な二分法」が歓迎されたことを指摘している。それは「印象派は物の効果を描く、そして後期印象派は物の感覚又は心理的感情を描く。もつと簡明に謂はば、古い行き方は─再現(レプレゼンテーション)─であつた。新しい行き方は─表現(エキッスプレション)─である」(木村訳)という、再現(旧)と表現(新)を対置するものであった(注19)。この西洋由来の思想が関らの中国画理解、南画再評価の基盤になっていることは、先に紹介した関の絵画観が模倣・形似(再現)ではなく自己(表現)を重んじるという二項対立を基礎構造とする点からも改めて推察されるのであり、これが表現主義的傾向(注20)を看取しやすい明末清初諸家の受容を促したものと理解される。― 167 ―
元のページ ../index.html#177