そのことを端的に示すのが他ならぬ関の著作『五色の酒』の挿絵である。大正3年元旦に発行されたこの本には、日本画家と洋画家(注21)から寄せられた挿絵が並ぶが、残りの挿図(全体の過半)を西洋画と明末清初諸家の作例が占めており、その心酔ぶりがうかがわれる。西洋画はPost-Impressionistsとされた画家を主とするセザンヌ2点、ゴッホ2点、ゴーギャン2点、マティス2点、グリーヴス1点、中国画は明末清初の「清人八大山人」2点〔図8-イ・ロ〕、「清人李鱓」1点〔図8-ハ〕、「清人龔賢」1点〔図8-ニ〕、「清人釈道済」(石濤)2点〔図8-ホ・へ〕であった。これら明清画はいずれの作も墨の潤渇が効果的に用いられている。花鳥画は、略筆で描く樹石を偏角構図に配置して余白を大きくとり、花鳥の簡潔な描写が瓢逸な印象の画面を形成する。山水図は龔賢画(注22)に見られる擦筆・潤筆を無数に重ね土坡の曲面を柔和に表す筆致、石濤画の単純化された家屋の構成的な配置が特徴的である。これらは紫紅周辺の新南画で多用される表現であり、影響関係が想定される。先に挙げた関の随筆を収録する同書がこうした絵画を掲載したことで、多くの読者に洋の東西の比較を促しもしたであろう。この挿図は、当該期に西洋画と対置された中国画が(真贋や作者比定を措いたとしても)具体的にどのような絵画表現として理解されていたかを明らかにする点で注目されるべきものである。(2:明末清初期絵画の将来と受容)続いて上述のような中国画の紹介が中国画の将来に支えられていることに眼を向けたい。辛亥革命により中国社会は流動化し、文物の遷移や人的交流を促した(注23)。関は史料⑩のように樹立されたばかりの中華民国により清朝宮廷の宝庫が公開されることさえ期待している。日本への中国画流入が増加する中、蒐集家として特に知られたのが寺崎三矢吉である。明治末には既に明清画蒐集で知られ、大正元年には蔵品である陳淳の画帖が『白陽山人花鳥真蹟』(画報社)として刊行されている。同明治45年『美術新報』第210号では、寺崎が所蔵品展観を3度開催したことを同誌主幹の犀水坂井義三郎(雪堂)が伝えている(注24)。この記事で、坂井は史料⑪のような絵画展開論を披露する。坂井は日本画は形骸化しているとし、参考とすべきであるのは性質を異にする新来の西洋画ではなく中国画とする。さらに中国画の性質を「個人性を強く画面に発揮する」と評価し、「支那画の研究は日本画家当面の急務」であるとしている。この主張は、上述の二項対立を根拠とする中国画評価を坂井が共有していることを示すとともに、作品の将来(鑑賞体験の増加)がこうした認識を支え、高揚感をもたらしていることを示唆している。― 168 ―
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