鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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なお、坂井はここで「却て洋風画家の側から、日本画の発展を成し遂げるものがあるかも知れぬ」と述べており、実際に美術新報主催で洋画家による日本画展を開催している(第3回美術新報展)。出品された作品には、略筆で描いた花鳥景物を縦長の画面へ意匠性豊かに配置するものが多い。同様の傾向は同時期の无聲会(第11・12回展)出品作にも見出し得る(注25)。これらの作品は当時紹介されていた明末清初期の花鳥画と通じており、新南画の萌芽的傾向として注意をしておく必要があると思われる。3 紫紅と新南画の成立上述の如く、大正改元前後には西洋新思潮の受容と中国画の将来により、明末清初諸家に対する認識が大きく変容した。これが紫紅の画風転換の時代背景となることをふまえ、最後に紫紅について見ていきたい。(1:紫紅の南画学習)既に知られる紫紅の明清画学習としては、三溪原富太郎のもとでの経験がある。三溪は経済的援助を行う紫紅、靫彦、青邨、古径らと夜を徹して蒐集した古名画を鑑賞し談義する会合を明治45年頃から月に数回催した(注26)。細野正信氏が指摘するように(注27)靫彦は「原家の龔半千の佳作にも接していた」(注28)と述べており、具体的には三溪蔵品の絖本淡彩寒林図〔図9〕(注29)などを熟覧していたと推測される。また、同じく細野氏が指摘する複製による学習も考慮にいれるべきであろう。靫彦によれば紫紅は大正改元前後から龔賢や呂潜を研究し、その後周辺の青年画家に中国渡りの石版写真画を見せていた(注30)。御舟は「毎月一回赤曜会の研究会を開き、夜は古画、殊に南画の山水花鳥などを研究された」(注31)と回想する。加えて本稿では、紫紅の積極的な明末清初諸家の学習が、日本におけるその受容を牽引した人的交流の中に位置していたことを指摘しておきたい。風堂によれば、紫紅と関如来は著作の装画授受を機に交友を深めたといい、紫紅らは関のもとを蔵品である八大山人鑑賞のためよく訪問したという(注32)。さらに、関が『五色の酒』にも掲載した「軍鶏図」〔図8-イ〕を、紫紅は死の直前(大正4年12月)に寺崎三矢吉から購入し珍重していた。これを伝えるのは他ならぬ関如来の紫紅追悼文で、「紫紅君は此の一幅を其手に収められて非常に喜んで居られた」と記している(注33)。関が同書挿図に掲げた他の絵画についても、紫紅が同様の認識に立ち、憧憬したことを示唆していよう。この交流は紫紅の明清画受容の経路を伝えるのみならず、明末清初諸家への憧憬が画家・蒐集家・批評家という広がりをもち相互に影響を与えるという状― 169 ―

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