鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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注⑴高野山に関する研究を集約した近年の目録として、宮野純光「高野山関係文献目録─前編─」(『寺社と民衆』2、2006)、同「高野山関係文献目録─中編─」(『寺社と民衆』3、2007)、同「高野山関係文献目録─後編─」(『寺社と民衆』4、2008)を挙げておく。⑶大河内智之「仏像の移動とその実態─彫刻資料から地域史を読み解くために─」(『和歌山県立⑸赤松俊秀「高野山御手印縁起について」(同『続鎌倉仏教の研究』平楽寺書店、1966)、武内孝西高山応神山・神勾谷とは一見離れているように見えるが、その右側に記される志賀、そして天野(絵図中では天乃)との位置関係は、現在の星川・御所(及び星山・日高を含む四村地区)から志賀、そして天野へと隣接する地理的状況とも一致していることも、こうした着想の妥当性を補強するといえる。弘法大師御手印縁起は、平安時代中期~後期における高野山の聖域(結界)が、さまざまな神話(縁起)とともにいかに設定されていったか、その状況を伝える史料と捉えられるが、本稿の作業を踏まえれば、そうした聖域意識の形成にあっては全く荒唐無稽の主張をふりかざしたのではなく、結界の場となる現地にも一定の拠点が確保されていた可能性が十分想定される。そうした点で、弘法大師御手印縁起の成立が概ね11世紀ごろと捉えられることと、薬師寺・大福寺の仏像群中に10~11世紀の作例が5軀確認できることは、重要な一致であると思われる。おわりに本稿では、和歌山県伊都郡かつらぎ町御所の薬師寺と、同星川の大福寺に伝わる仏像10軀を紹介し、それら仏像の存在を核に古代寺院感応山(寺)を復元して、あわせてそれが、従来不明であった弘法大師御手印縁起に聖域の西端として提示される応神山(=神野山)に対応する可能性を示した。これら仏像群と高野山上や天野地域、慈尊院など周辺地域の仏像との比較や、現地調査による感応山比定地の絞り込みなど残された課題も多い。仏像を通じた高野山文化圏の地域史解明のために、今後のさらなる検討を期すこととしたい。 ⑵大河内智之「高野山麓 祈りのかたち」(和歌山県立博物館編『高野山麓 祈りのかたち』和歌山県立博物館、2012)、大河内智之「法福寺阿弥陀迎接像について─高野山膝下における浄土信仰とその場─」(林温責任編集『仏教美術論集3 図像学Ⅱ─イメージの成立と伝承(浄土教・説話画)』、竹林舎、2014)博物館研究紀要』19、2013)⑷伊藤太「「神尾寺」と木津天神山のトポス」(『やましろ』23、城南郷土史研究会、2009)、伊藤太「万葉歌にみる恭仁京と神雄寺のトポス」(勝山清次先生退職記念事業会編集・発行『勝山清次先生退職記念献呈論文集』、2013)― 8 ―

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