況が、紫紅存命時にまで遡り存在したことを示している。この点は特に強調しておきたい。なお、紫紅が池大雅からの影響を受けていることは先行研究が明らかにしてきた通りであるが、明末清初画と直接連続する存在と理解されていた可能性を想定すべきと思われる。靫彦は「古画の研究に就て」(注34)と題する文章で中国画の名画として龔賢の作を挙げ、挿図に掲げている〔図10〕(注35)。複製困難のため断念したものの本来は高然暉の山水画を挿図とする意向であったとも記しており、これに該当すると推察される「筆耕園」(注36)収録の高然暉画〔図11〕もまた龔賢画と同様に紫紅らの新南画と表現上の共通性を見せる点が注目される。そして、靫彦は龔賢が「唐宋の南画の一面を伝へ」ており、その「明清の南画が徳川時代に入つて大雅、蕪村などを出した」と位置づけるのである。靫彦とともに南画への関心を深めた紫紅は近似した認識を有したと見ておきたい。(2:紫紅の南画観)紫紅の南画学習を動機づけた絵画観として、南画が西洋画より優れるとする主張を有していたのは先に述べた通りであるが(史料⑥)、これは関の認識と重なっている(史料⑨)。「熱国の巻」に結実した紫紅の東洋遊歴の実行は半ば強引なものであったが(注37)、これについても関の史料⑨のようなインド崇拝と「根拠を東洋に置て、世界の芸術を征服する」といった芸術観がその背後に想定される。東洋絵画の優位を説く態度は、南画という伝統を有しているという論理に支えられており、これは形式や視覚情報の再現よりも作者の内面の表現に価値を見出す絵画観(注38)を前提としている(史料⑧も参照)。紫紅はその顕われとして、しばしば技巧・形似の超克に価値を見出し得るという見方を表明した。「近江八景」についての「無論那麼色は実景ではありません。只自分の書きたいと思つた画を思ふままに描いた迄です。」(注39)なる談話が知られる。また「御自分の立場としての結論は『乃公はうまいか拙いか分らない画をかきたい』と云ふのでした」と岡本大更が紫紅の言葉を回想している(注40)。画論として特異な主張ではないが、先に触れた「再現」から「表現」へという理念が波及する中にあって、これを日本画の絵画表現に明快に反映させ、周辺の画家へ伝播させたことにこそ紫紅の画期性があると思われる。なお、御舟の「洛外六題」(大正6年 再興第4回院展)は高く評価された(注41)が、御舟自身は発表の後「こんな安易な気持でゐてはいけないと思ひ出した。もつと厳密に、もつと忠実に、ものを見なければいけないと思ひ出した。」と細密描写へ作風を転じている(注42)。御舟の「表現」から「再現」へという再転換は、絵画表現― 170 ―
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