注⑴文人画・南画・南宗画の語が各々持つ含意をふまえつつ、本稿では同時代において(とりわけ画家や評論家によって)多用された南画の語を用いる。この問題に関しては河野元昭「日本文人画試論」(『國華』1207、平成8年)が研究史を含め詳論するほか、大熊敏之「近代南画史考」(『自然に遊び、自然に謳う─近代南画展』群馬県立近代美術館、平成11年)が近代について包括的に論じており参考となる。の展開における新南画の位置を考える上でふまえるべきと思われるのでここに触れるが本論の範囲を大きく超える問題でありここでは詳論しない(注43)。(3:紫紅の絵画表現)「近江八景」の表現については南画の他、既に点描における横山大観・菱田春草の影響(注44)、色彩における俵屋宗達・尾形光琳の影響(注45)などが知られる。以上のような議論をふまえれば、明末清初諸家の表現を骨格としてこうした多様な要素を統合し、濃厚で明るい色彩の画面に変容させた点に本作の重要性があると解釈される。実際、関如来は本作の表現の具体的淵源について「其の手法に至りては明清水墨の南宗画に代ふるに濃厚なる色彩を以てしたる」(注46)、すなわち明清画の色彩化であると説いている。また、青邨と古径は紫紅が没した際「氏は特に色彩に関する自信を有して居て最近の研究として特に南画を色彩で行くと云ふ企てがあつた」(注47)と証言しており、紫紅がこれを継続的な画作の指針としたことが確認される。濃彩と点描を意識的に多用する「近江八景」は、紫紅の絵画表現上の広範な関心に支えられ実践された、南画の色彩化の試みと解釈されるのである。おわりに以上のように、明清画の将来と西洋美術思潮の受容の中、その絵画表現と絵画観を日本画家に波及させ、新南画という潮流の形成を導いた存在が紫紅であったと理解される。それは、形似・技巧の超克という造形認識が、再現から表現へという平明なだけに効果的な論理的支柱を伴って日本画家に伝播し、明清画にその造形上の規範が見出されたことを意味している。絵画表現の展開における新南画成立の重要性はここに認められるのであり、その初発的作例こそが「近江八景」と言えるであろう。そしてこの新南画から展開したとされる個性主義的観点による中国画評価や東洋美術至上論の淵源もまた、その成立の中に既に見出されるのである。⑵酒井哲朗「大正期における南画の再評価について─新南画をめぐって─」(『宮城県美術館研究紀要』3、昭和63年)、『自然に遊び、自然に謳う─近代南画展』(群馬県立近代美術館、平成― 171 ―
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