⑶紫紅については『今村紫紅 その人と芸術』(山種美術館、昭和59年)、『大正日本画の若き俊英たち─今村紫紅と赤曜会』(東京都庭園美術館、平成5年)、『紫紅と靫彦』(横浜美術館、平成7年)など。⑷「赤曜会展覧会」(『萬朝報』大正4年6月12日)、南米岳「赤曜会を観る」(『多都美』9-11・⑸藤懸静也「新南画」(『美術画報』40-12、大正6年)。⑹黒田鵬心「文展日本画余録」(『多都美』6-23、大正元年)も参照。⑺牛田雞村「紫紅さんの話」(『萠春』52、昭和33年)。⑻町田曲江「西洋人は日本画を如何に観察しゝつあるか」(『絵画清談』3-5、大正4年)、笹川臨風「文展と院展と二科展」(『中央公論』30-11、大正4年)、木下杢太郎「新東洋趣味」(『中央公論』31-8、大正5年)、横山健堂「文人画家風の四大家」(『中央公論』31-10、大正5年)、瀧精一「絵画と書法」(『中央公論』31-11、大正5年)、石井柏亭「南画と現代画」(『中央美術』3-7、大正6年)、西街生「院展漫評」(「国民新聞」9月17~22日、大正6年)、山脇信徳「南画臭の流行」(『中央美術』3-9、大正6年)、藤懸静也「新南画」(『美術画報』40-12、大正6年)など。⑼二人がともに小田原に在住した時期の話であるので、明治45年春(靫彦の小田原転居)から大⑽なお児玉果亭は不在であったという。一方で中村渓男「快男子紫紅の面影 盟友安田靫彦の聞き書より」(『今村紫紅』日本経済新聞社、昭和60年)には箱根滞在中の鉄斎を訪れたが不在であったとの逸話が記されており、留保が必要である。⑾「紫紅の追想」のうち本間国雄執筆分(『たつみ』12-3、大正7年)、富取風堂「恩師を語る─松本楓湖先生のこと─」(『白日』14-6、昭和15年)。⑿関如来「日本美術院の創立=日本画壇回顧四十年=」(『塔影』13-9、昭和12年)。⒀明治44年から翌年にかけて刊行された近藤元粋『蛍雪斎論画叢書』(猶興書院)の第3巻に釈道済「画語録」が、第6巻に龔賢「画訣」が掲載されるなど、既に日本でも知られていた。ここでは同時代美術に対する指針として関如来が提示した点を強調したい。⒁関如来「宗右衛門町より」(奥書大正2年5月)(『五色の酒』春陽堂、大正3年。233頁)⒂稲賀繁美前掲書注⑵第Ⅲ部⒃高階秀爾『日本近代の美意識』青土社、昭和53年。⒄柳宗悦「革命の画家」(『白樺』3-1、明治45年)。⒅リュイス・ハインド(木村荘八訳)「後期印象派論」(『現代の洋画』17・後期印象派、大正2年)。⒆この「再現」は視覚情報の再現とともに、先行する絵画表現の再現をも含意する語として受容されたと思われる。紫紅は「日本画の教育方針」(『中央美術』1-1、大正4年)において流派は過去のものと断じた。この問題に関しては以下の論文でも扱っている。中野慎之「昭和大嘗会屏風の史的位置」(『京都美学美術史』11、平成24年)、Noriyuki Nakano, “Significance ofSubstantiality in Nineteenth-Century Japanese Paintings: Yo¯sai Kikuchi's Illustrated History of JapaneseHeroes and the Rekishi-ga of the Meiji Era” (Kayo Hirakawa (ed.) Aspects of Narrative in Art HistoryGraduate School of Letters, Kyoto University, 2014)、中野慎之「京都画壇における鵺派の意義」(『美11年)、千葉慶「日本美術思想の帝国主義化─1910~20年代の南画再評価をめぐる一考察」(『美学』213、平成15年)、『南画って何だ?!』(兵庫県立美術館、平成20年)、稲賀繁美『絵画の臨界 近代東アジア美術史の桎梏と命運』(名古屋大学出版会、平成26年:第Ⅲ部)など。12合本号、大正4年12月)。正2年10月(紫紅の体調悪化。その後に上京・入院・東京転居)までの逸話となる。― 172 ―
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