鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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この問題については中野慎之「近代日本画肖像考─観山筆岡倉天心像の周辺」(『風俗絵画の文 中村渓男「快男子紫紅の面影 盟友安田靫彦の聞き書より」(注⑽)、古田亮「《京の舞妓》再考」 今村紫紅「色彩の話」(注)、安田靫彦「逝ける今村紫紅君」(『中央美術』2-4、大正5年)、 関如来「文展日本画及彫塑批評」8(「読売新聞」大正元年10月27日。前掲『五色の酒』に「文展の日本画」として再録。414頁)。一方、関は「其の護花鈴を描かれた頃から南画の研究を思ひ立たれたらしく、陸治の山水から脱化して、近江八景の現はれたのは、南画研究の最初の試みであつたと思はれる。印度旅行の帰途支那の山水を飽観して、此の念は愈深く、其の研究の結果は赤曜会の小品に於て屢々示された」とも述べる(注、関如来「紫紅君遺愛の逸品」)。紫紅と近しく接した者の言として傾聴すべきものであろうが、特に「陸治の山水から脱化」とする点、いかなる表現を念頭に置くのかという理解は課題となる。 青邨古径両氏談「紫紅氏の画風」(『東京朝日新聞』大正5年3月1日)化学Ⅲ』思文閣出版、平成26年)を参照。(『速水御舟大成』1、小学館、平成11年)。安田靫彦・河北倫明「美術対談」2(『三彩』74、昭和31年)。― 174 ―

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