― 180 ―の物語はあまりにも有名である。この物語が直接ミノアの社会や宗教、そして美術に関わりを持つのかは別の問題であるが、少なくとも両者は共にクレタを舞台とする(注9)。牛モチーフは既に紹介したクレタのクノッソス遺跡から出土した「牛跳び」と呼ばれる儀式を表すフレスコ画のような場面に頻繁に表され、このモチーフが、クレタの宗教儀式を連想させるシンボルのような性格を帯びることが窺える。他方、ギリシア本土、ペロポネソス半島のピュロス遺跡から出土した線文字Bの粘土板には「5頭の牛を送る」という記録あり、これらの牛がピュロス宮殿で行われる公式の儀式に恐らく聖餐や生贄として集められたことが推測されている(注10)。また、ヴァフィオ出土の黄金製カップには精巧なレリーフが牛のいる牧歌的風景や牛を網で捕獲する場面が表され、ミュケナイ世界においてもミノアと同じような位置を占めていた可能性が示唆される。これらの牛モチーフは山羊や鹿モチーフと高い類似性を示し、共にライオンやワシの頭部とライオンの胴を持つ怪物グリフィンに襲われる獲物として描かれる場合が多い(注11)。また、印章印影に限るとこれら3つのモチーフは極めて類似した図像の特徴があり(注12)、牛モチーフは時折、首や胴体が細く、角もまっすぐに表され、一見山羊と区別がつかない図像も多い。しかし、牛モチーフが山羊や鹿と比べ、特別な存在であることは、「牛跳び」という儀式が頻繁に表されることからも明らかであろう。山羊や鹿もいわゆる聖所のような場面に表わされることはあっても、「牛跳び」のような極めて特別な場面に、これらのモチーフがその主役として登場するような場面は筆者の知る限り存在しない。また、印章印影において、動物の頭部は正面観や側面観で表されるが、筆者の知る限り、頭部背面で描かれるのは牛モチーフのみであり、山羊や鹿、そして権力や力の象徴とも言われるライオンや神聖な怪物グリフィンでさえも背面では表わされない。したがって、牛モチーフはエーゲ世界において極めて重要な位置を占めていたと考えられる。3.牛モチーフの定義と牛モチーフが描かれる場面まず、印章印影に表わされる牛モチーフを選別するために牛モチーフの定義付けをする。牛モチーフは基本的には曲がりくねった角、太い首、四角い胴体、先が割れた蹄、そして長い尾を持つ姿で表される〔図1〕。多くの場合、胴体には肋骨と思われる曲線が表わされ、時折太い首にはタテガミのような表現も認められる。上述したように、山羊や鹿と酷似する図像もあるが、1つのモチーフにおける印章の材質間、地域間の相違に焦点を当てるため、ここでは明確に牛モチーフと認識できる作例のみを取り上げる。この定義に該当する作品は811点を数えた(注13)。これは印章印影にお
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