3 明治20年代の様相─日本美術協会と宮中御歌会─― 192 ―品にそぐわなかったということであろう。絵画の表面から文字がほとんど消え去っていたこの時期、文学史に目を向ければ、一般的には明治15年の新体詩運動、明治20年代半ばの浅香社による革新運動が起こり、与謝野鉄幹と正岡子規による桂園派攻撃・古今集の否定へと続くなかで、伝統的な和歌は衰退したとみなされてきた。しかし一方で、天皇家と和歌との結びつきを拠り所とした古今集の復興が行われている。江戸時代後期から続く桂園派が台頭し、明治政府の元でも宮内省派・御歌所派と称され中枢を占めた。この時期には王政の復古が宮廷文学としての和歌の復興と連動しており、宮中の御歌会においても古今集を踏まえた題詠が行われている。これについて小林幸夫氏は、「明治初期・中期の歌壇は、古今集を媒介にして歌を天皇と国家に結びつけることによって活性化していた」と指摘している(注4)。明治20年代には、日本画の諸団体の中にこのような歌壇の動きと対応した状況を見出すことができる。それが著しく表れたのは、龍池会を引き継ぎ明治20年に発足した日本美術協会の展覧会である。日本美術協会の画家たちは旧派とも呼ばれ、保守的な伝統画法の固守に留まったとされることもあるが、近世から近代への過渡期における文学と絵画の関係を見る上では無視できない存在である。同会は明治22年に初めて新画を含めた美術展覧会を開催するにあたり、「水石契久」「智」「博恵」という三題を設定した。このうち「水石契久」はその年の宮中歌会始の勅題であった。主事・塩田真はこの出題理由を会誌の中で次のように説明している(注5)。まず美術展覧会の出品作品に題を設定することについては、「我か美術上の製品中技術に長するものは数多ありと雖とも新意匠を着するは殆と罕なり。偶々新意匠を着するものあるも兎角に鄙俗に流れ其高尚雅麗の趣を存するものは僅々なり」、特に絵画の多くは「全く凡庸の意匠にして或は古人の図案を全用し来り或は彼此より寄せ集め来たるもの自家の好工夫より成るものも亦罕なり」と、美術作品の高尚雅麗な新意匠を考案させるために新題を設けたと説く。さらに「優美高尚なる典故より出たる題なれは之れに拠て着する意匠も亦随て優美高尚ならさるへからす」と述べ、三題それぞれの出題意図を説明している。「水石契久」については、「水石契久というは和歌題なるに若し怒濤山の如く狂奔し懸岸の岩石為に砕けんとする図を製さは誰か此れを題意に協へりと言ふへき。此題の如きは須らく契久の二字を眼目として親密穏和の趣を呈する考按こそ本意ならめ」と述べ、この題で古人が詠んだ和歌10首を参考と
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