4 日本美術院と下村観山― 193 ―して掲載している。引用された和歌は源俊頼から江戸中期の歌人中院通茂までと幅広い。後水尾院勅撰の『類題和歌集』など、近世に編纂された題材別の和歌集を典拠として記しており、この分野に暗い応募者に対して和歌題に取り組むにあたり参照すべき文献を示していると言える。ここで設定された「水石契久」という題は、一見して歌意図を求める題では無いが、その出題意図は画家に古歌を研究し、一種の歌意図を制作することを求めるものであった。この題によって開催された最初の日本美術協会の美術展覧会では、柴田是真《渓流香魚図》が銀牌を受け、銅牌8点のうち4点、褒状23点のうち5点が「水石契久」の題に拠るものであった。それらの作品の図様を知ることはできないが、褒状を受けた歌川国松の《水道紀年碑図》は画家の身近な景色を題材にした図と思われ、「意匠設色倶ニ宜シ」と講評されている。当時の歌壇においては伝統的な歌題を用い古歌をふまえながらも作者自身の経験や感情を詠み込むことが重視されており、この展覧会においても古歌を研究した上で自身の体験に引き寄せて考案された意匠が評価されたことは、両者の共通性を見せるものである。日本美術協会の試みは単なる守旧派の復古主義という訳ではなく、近代の歌意図の萌芽というべきものを生む場ともなっていたと推測される。この年から日本美術協会は年一回の美術展覧会のほかに毎月絵画研究会を開催するようになり、その規則には「課題は毎月二題若くは三題とし其一題は宮内省御歌会の御題を用ひ一題若くは二題は季節に応じ適宜に設くるものとす」と定められた。画家の研鑽の手段として、和歌題による新図考案が適当であると考えられていたことを示している。なお日本美術協会は、黒川真頼による「書は美術ならず」の論への反論である「書画の話」という講話を始めとして度々書に関する論説を会誌上に掲載しており、さらに明治24年の美術展覧会ではそれまでの「第一部・美術」を「第一部・美術及書」と改め書の出品を受け入れているなど、中心になる人物たちが和歌文学だけでなく書に関しても親近感を持っていた。幕末期の知識人としての教養や趣味を持った人物らが中心的位置を占めたことが、これまで見たような同会の活動の基盤であった。一方、明治30年代から日本画壇を牽引する日本美術院の側ではどうであろうか。歴史画論争を経て行われた明治32年の「懸賞東洋歴史画題募集」は、東洋の歴史に関する画題を一般に募集したもので、岡倉天心と橋本雅邦が審査員をつとめた。
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