鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 195 ―佐竹本三十六歌仙絵巻の模写を行っており〔図7〕、《小町》はこれら既に流布した十二単姿で顔を隠す小野小町イメージを逆手に取り観者に衝撃を与える。歴史考証に喧しかった当時において小町が十二単を着るはずもなかったことはここでは気にされず、従来の歌仙絵の伝統の中に歌意を取り込もうとしている。観山はこの時期、井筒や大原御幸など謡曲を題材とした作品も多く手がけている。さらに明治36年から2年間のイギリス留学を経て、第1回文展で《木の間の秋》が好評を博した後も、観山は《小倉山》〔図8〕という和歌を主題とする作品を発表した。明治42年国画玉成会に出品された本作は、六曲一双の屏風に紅葉する樹木とその下に座る歌人を描き、小倉百人一首にある貞信公の和歌「小倉山峰のもみぢ葉心あらば今一度の行幸待たなむ」の歌意を表した。この時代に歌意図を描くためには、《小町》もそうであったように、和歌を直接書かなくても万人にその意が知られるよう、古歌であっても特に著名な歌を採る必要があっただろう。貞信公の小倉山という小倉百人一首の和歌を採ったことにその意をみることができる。また単に小倉山という題で紅葉の景を描いただけでは単なる名所絵とも見えるが、観山はここで歌仙図の型にならった歌人の姿を描き込み、さらに他の図様で和歌の内容を逐語的に表している。すなわち、貞信公の座る右隻後景の紅葉はいまだ盛りで多くの葉を残すのに対し、前景の葉は白く枯れ、既に地面に落ちた葉も数枚描かれて紅葉の見頃がまさに過ぎようとしている季節を示す。右隻の土坡は左隻では連続せず、左隻下部の叢樹は山の斜面の存在を示してここが「峰」であることを伝える。さらに貞信公の視線の先を見ると、眺めているのは紅葉ではなく、左隻の余白に向かって伸びる一本の若松の枝であり、この歌の主題が御幸を「待つ」心情であることが掛詞的手法を用いて示される。貞信公の和歌は、宇多上皇が子である醍醐天皇にもこの紅葉を見せたいと言った心情を代弁したものであり、この松がとりわけ若く細く描かれるのは若い帝を寓意しているからでもあるだろう。これらの作品は、近代日本画におけるいわゆる琳派受容の初期の例とみなされうるものである。近代になり琳派が装飾的であるという認識が高まり、琳派的という新しい枠組みが絵画を語る際に用いられるようになった(注6)。近代絵画における琳派の受容という問題を考える際にも、主に装飾的傾向が問題とされてきた(注7)。しかし観山が《木の間の秋》の後に残したこの《小倉山》について言うならば、これは琳派の構図や色彩における装飾性のみならず、和歌の意を画面内のモチーフに取り込み観る者に解釈を許す近世絵画の文学性をも引き継いでいる。

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