5 おわりに注⑴ 同展図録所収の川西由里「歌絵のゆくえ─近代における『和歌と美術』」は、新古今集以前の古歌を対象として明治期の歌絵の減少を指摘し、「絵の見られ方や社会における役割が転換した明治以降、野心的な画家たちにとって、和歌は追求すべき題材ではなくなってしまったようだ」と述べる。本論では歌絵の減少という全体的な傾向についてはこれに同意しつつも、その中で展覧会の題や歴史画といった別の形をとりながら和歌が絵画の中に生き延びて行ったこと、それが明治40年代以降の日本画における琳派受容へとつながることを指摘したい。⑵ 山下善也「狩野永岳三十六歌仙歌意図屏風の詳細」『静岡県立美術館紀要』14号、平成11年⑶ 武野恵「近世における定家詠月次花鳥歌絵の展開─吉村孝敬を中心に」『MUSEUM』414号、東⑷ 小林幸夫「明治初期・中期における古今集の復活」『古今集・新古今集の方法』笠間書院、平成16年― 196 ―ここまで明治期の日本画と和歌との関わりについて述べてきたが、日本画以外の領域にも例を見ることができる。最も早い時期に欧州で油彩技法を学んだ画家の一人である川村清雄は、幕臣の子としての文学的素養を持ち、絵を描くにはまず和歌の道より入るべしと説くほどであった。その油彩作品にはしばしば色紙形と和歌の書き込みが登場する。それは《お供え》のように自詠のこともあれば、『後撰和歌集』などの古歌より採る場合もある。また色紙形を描いておき、賛を依頼する場合もあった。《龍田川》〔図9〕のように工芸意匠に古歌を用いることもあり、これらの清雄の絵はしばしば琳派的と評される。清雄が和歌を書き入れるのは主に板絵であり、余白を多く遺した簡略な筆致で描かれたものである。これらは慶事の祝い品など贈答用に用いられたものであろう。さらに明治末期という文芸誌の勃興期、清雄はこれらの装幀を手がけた。特に『新小説』の表紙は色紙形に古典文学の抜粋を書き込み、その内容や有職故実を新鮮な感覚で描いて好評を博した〔図10〕。プライベートな空間で鑑賞される絵画や出版の分野には、日本画はもちろんのこと洋画においても、伝統的な和歌と絵画の共存が残されていた。明治後期以降、伝統的な桂園派を中心とする歌壇はいよいよ求心力を失い、代わって台頭するのは万葉調を賛美し近代短歌を作り出した与謝野鉄幹や正岡子規らのグループである。それと呼応するように美術においても和歌の主題は姿を消し、絵画と詩歌との関係は万葉イメージの表現や文芸誌の挿絵に舞台を移していった。それらの豊かな世界が生まれた素地として、明治という転換期における詩歌と文学の連関を無視することはできない。京国立博物館、昭和60年
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