研 究 者:三井記念美術館 学芸員 海老澤 るりははじめに日本における吉祥天は、『金光明最勝王経』を根本経典とし、奈良時代より天下泰平・五穀豊穣を祈願する吉祥悔過の本尊として信仰・造像されたことは周知の事実である。また、続く平安時代に入ってもなお、吉祥天は広く伝播し造像された尊像であることが知られる。これまで、悔過法会とそれに伴う造像に関する研究が各分野において行われているが、古代より重要視されていた吉祥天に特化した研究は数少なく、特に多くの作例が残る平安時代の造像背景においては十分な研究が進んでいるとは考え難い。そのために多くの問題が山積しており、法会と造像の関係については、今後の吉祥天の全体像を捉える上でも解明すべき重要な問題の一つであると考えている。本研究では、平安時代における吉祥天の信仰と造像について、法会と造像の関連性に着目し、その一端を明らかにすることを目的とする。平安時代における吉祥天を本尊とする法会について、現存作例と関連付けた考察を試みることによって、吉祥天像の信仰形態を浮き彫りにする。またその具体例として、本研究では法隆寺金堂の毘沙門天・吉祥天立像〔図1、2〕を取り上げる。法隆寺像は関連史料により、承暦2年(1078)年に、吉祥御願の本尊として造像されたことが判明し、現在でも法隆寺では、この吉祥御願を起源とする金堂修正会が執り行われている。このため、法隆寺金堂像は制作年が判明する平安時代の基準作というだけでなく、平安時代の吉祥天の法会と造像の関係をより具体的に捉えられる一例として、重要視すべき作例と考える。1.平安時代における吉祥天の法会と作例についてまずは吉祥天に関する法会と作例に関して、これまでの先行研究の成果や史料等のデータを再検討し、平安時代の吉祥天に関連する法会と造像の関連性からの考察を試みる(注1)。①法会吉祥天を本尊とする法会である吉祥悔過は、平安時代においても『類従三代格』昌泰元年(898)12月9日条の太政官府の吉祥悔過に対する規定の記載により、依然として行われていたことが知られる。しかし『小野宮年中行事』寛徳2年(1045)正月以降、吉祥悔過の記載がほぼ見受けられなくなることから、吉祥悔過という名の法会― 201 ―⑲平安時代における吉祥天信仰・造像に関する考察─法会と造像の関連を中心に─
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