は11世紀には消滅していくとされる。― 202 ―修正会は、11世紀頃より史料に散見し始める法会で、期日や日数が吉祥悔過と一致し、主に六勝寺を中心とする京都の諸事において執り行われた吉祥悔過を源流とする法会であると考えられている(注2)。さらに平安時代では、吉祥御願と称する法会が、東大寺や法隆寺などの諸寺院において執行されている。東大寺では、天暦8年(954)に吉祥院が焼失したために羂索堂にて吉祥御願を行うこと(注3)、法隆寺では、承暦2年(1078)に吉祥御願の本尊として金堂に毘沙門天・吉祥天像を安置したことが判明する(注4)。吉祥悔過・修正会・吉祥御願と称されたこれら法会の直接的な関連性については本研究においても明確にすることが出来ず、今後さらなる検討を要するが、吉祥御願が吉祥悔過と同様の法会であるとの見解(注5)や、現在法隆寺において金堂修正会が実施されていることから、関連性の高い法会であると想定できる。また、宮中における吉祥天関連の法会として、御斎会や最勝講が挙げられる。御斎会は、神護景雲元年(767)年の『金光明最勝王経』講説を起源とし(注6)、『三宝絵詞』「御斎会」の記載により、昼は『金光明最勝王経』を講じ夜は吉祥悔過を行うことが知られる。最勝講は、『金光明最勝王経』を講讃し天下泰平を祈る法会で、『釈家初例抄』によると、長保4年(1002)より始まり、その本尊は中尊の釈迦及び脇侍の毘沙門・吉祥天とされる(注7)。さらに平安時代においては、『大吉祥天女十二名号経』などの吉祥天に関する密教経典や吉祥天像彫像が入唐僧の請来記録により確認でき、吉祥天と密教との関連性も見逃すことは出来ない。吉祥天と密教に関連する法会としては、宮中の真言院にて行われた後七日御修法が挙げられ、大吉祥天真言を他の尊像の真言よりも多く唱えることが「後七日御修法部類」に記載されている(注8)。以上により、奈良時代において吉祥悔過という、吉祥天信仰のいわば基軸とされた法会が、平安時代に入り多様化し複雑な様相を呈することが分かる。②作例平安時代における吉祥天関連の法会に関する史料より、実際に吉祥天の様相を伺い知ることのできるものはわずかであるが、その例を挙げると、まずは『三代実録』の元慶元年(877)8月22日条の記録がある。その記載によれば、国分寺にて毎年正月に修されていた吉祥天画像が経年による剥落のため、貞観13年(871)に木彫像に改められたとある。吉祥天の現存作例を概観すると、10世紀以降の作とされる彫像が多くを占め、画像は管見の及ぶ限り現存しないことから、『三代実録』の記載は、平安
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