鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 203 ―時代の吉祥天に関する法会の本尊形態の変化を示唆するものと見られる。また、他の史料としては、前述した『金堂日記』・『釈家初例抄』の記録が挙げられる。これらには吉祥御願・最勝会の本尊について、釈迦・毘沙門・吉祥天という尊像構成に関する記載がある。実際平安時代の作例には、独尊像の他、毘沙門天像との一具、または毘沙門・吉祥天・善膩師童子の三尊形式の作例が見出せる(注9)。このうち毘沙門天と吉祥天の関係は『金光明最勝王経』「四天王護国品」、毘沙門・吉祥天・善膩師童子の関係は『毘沙門天功徳経』の記載に基づくものと考えられているが、実際、それらの経典と吉祥御願・最勝会といった法会の本尊との関連性については依然不明である。平安時代における吉祥天の法会に関する史料と現存作例により、本尊の形態や尊像構成の一端を知ることは出来たが、吉祥天の具体的な像容については伺えず、平安時代の吉祥天像の像容を概観したところ、奈良時代に準じる通形の作例が多くを占めていた。具体的には左手に宝珠を執り、右手は与願印を表し直立する姿で、その着衣形式は、上半身に筒袖の衣・大袖・襠衣の三枚を重ね、下半身には裙と蔽膝を着ける。しかしその一方で、菩薩のような髻、大型の宝冠、蔽膝を表さない着衣形式の作例も見出されるようになる(注10)。これは密教的要素の導入など、平安時代の吉祥天における新しい信仰形態が一因とも考えられるが、他に吉祥天の像容に関する問題として、梵天・帝釈天像との関係性を見逃すことは出来ないだろう。従来指摘されている通り、平安時代における吉祥天像の中には、梵天・帝釈天と見分けが付かない作例も見出されている。実際に梵天・帝釈天の作例について、主に着衣形式に注目すると、奈良時代では大袖の衣のみを着用する作例(注11)、あるいは襠衣や袈裟の内側に甲冑を着用する作例(注12)など、明らかに吉祥天と区別されていた。しかし平安時代になると、衣の内側に甲冑を着用せず吉祥天と同様の着衣形式を示し、外見上での区別が不可能な作例が増加する(注13)。これまで梵天・帝釈天及び吉祥天として伝来した作例について、神仏習合の問題から捉えなおすべき説が提示されているが(注14)、この点については、平安時代おける吉祥天の信仰形態の多様化・複雑化がその要因の一つであると考えられるだろう。よって、平安時代における吉祥天の信仰と造像に関しては、奈良時代のように一元的な捉え方ではなく、他の天部像をも含めた多元的視点から捉え直す必要性があると思われる。以上、平安時代における吉祥天像についての検討を行ったが、このうち制作年代が判明する作例として、醍醐寺像〔図3〕、鞍馬寺像〔図4〕、法隆寺金堂像〔図1、2〕が挙げられる。醍醐寺像は、大治5年(1130)造立で、三宝院流の清滝信仰と如意宝

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