― 205 ―寸毘沙門天・大吉祥天」に該当する像である(注18)。さらに『金堂日記』「奉安置施入仏像并雑具等事 一、安置仏像等」において、承暦2年正月に造られ始め、同年11月12日の完成後金堂に安置、12月2日に開眼供養が行われたと記され、本像が承暦2年に造立されたことが判明している。作風は、両像とも頭体のバランスが良く、動きを控えた穏やかな表現であり、衣文の彫り口も浅い点などは定朝様に通じるが、どっしりと肉付きが良い体つきなどは、霊山寺薬師如来坐像などと同様、11世紀後半の奈良地方の作風を反映したものと思われる。また、截金を多用せず色彩主体の点や、彫塗りといった技法は、同時代の他の作例には見られず、東大寺法華堂諸像に共通することから、奈良特有の古様な作風を踏まえたものと思われる。②金堂日記について本像の制作年代において触れた『金堂日記』とは、平安時代末期から鎌倉時代中期の法隆寺金堂に安置される仏像雑具の目録である(注19)。『金堂日記』の冒頭部分である「定注三箇状 一、開金堂可修御願事」には、当時金堂は数年前より開かれたことがなく、別当の交代時のみ一度開扉し、供物を備えるなどは中門東廊より奉献していたこと。金堂の閉鎖された状態は、聖霊の意図に背き愚僧の本懐でないため、金堂を開いて吉祥御願を修し、堂司を任じて金堂を守護しようと定めたという内容が記されている。さらに、吉祥御願については、他寺に倣い、法会の場を金堂から講堂に変更すること。本尊を画像から彫像に変更し、三尺五寸の毘沙門天・吉祥天各一体を造ることが記される。以上の記載により、吉祥御願と称される法会が他寺においても行われ、本尊を画像から彫像に変更したという、当時の吉祥天信仰の状況が分かる。さらには、当時閉鎖されていた金堂の状態が、聖霊いわゆる聖徳太子の意図に背いており、吉祥御願を金堂にて修する理由として記載されていることから、この吉祥御願の実施及び毘沙門天・吉祥天像の造立が、聖徳太子信仰に深く関わる行いであったと解釈できる。この点については、本像を当時の法隆寺における聖徳太子信仰の一連の流れの中に位置付ける見解がある(注20)。③聖徳太子信仰との関わり『金堂日記』の記載により、法隆寺金堂毘沙門天・吉祥天立像と聖徳太子信仰の関連性が浮上したが、そこで想起される作例が、治暦5年(1069)に造立された法隆寺聖徳太子坐像〔図5〕である(注21)。聖徳太子の現存最古の彫像として知られ、像内墨書銘から、「聖徳太子御童子形御影」として仏師円快・絵師秦致貞によって造立
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