― 206 ―されたことが判明する。加えて聖徳太子坐像は、『太子伝私記』の「絵殿東面有御影。童子形也。聖霊会之料也。出御輿。左方舎利。右方太子。其日奉入正堂」と記される像に該当し、法隆寺聖霊会の本尊として、中世の法隆寺における聖徳太子信仰の発端に位置付けられる作例と指摘されているが(注22)、この聖徳太子坐像と毘沙門天・吉祥天立像にはいくつかの共通点が見出される。まず、両像の制作年代が治暦5年、承暦2年であり、その差が9年間という近い点である。作風は細かい部分は一致するとは言えないが、落ち着いた厳かな姿態、像奥が深く安定感に富む体躯、色彩主体の表面仕上げ(注23)、また一木割矧ぎという構造が共通する。そして坐像・立像の違いはあるものの、面長以下各部分の法量が近似しており(注24)、毘沙門天・吉祥天立像はこの聖徳太子坐像と同じ作者とは断言出来ないまでも、かなり近い関係が想定できるのである。さらに、制作年・作風・法量の近似性に加えて、毘沙門天・吉祥天立像と聖徳太子坐像との間には、ある共通項が存在することをここで指摘しておきたい。『金堂日記』「奉安置施入仏像並雑具等事」にはこの毘沙門天・吉祥天立像に関わる仏具・経典などが整う様が記載されているが、その施入者の中に「開浦房」の名が見られる。『奈良六大寺大観』では、開浦房について『平安遺文』「法隆寺文書」の「開浦院住僧解」に名を連ねた院主源義である可能性を指摘している(注25)。「開浦院住僧解」は、天永2年(1111)4月12日、法隆寺西別所である開浦院の院主法師源義とその門弟によって、法隆寺政所に院家敷地、灯油料の地子と雑役等を先例通りに免除するよう申請した文書である(注26)。この中で、源義は「元者薬師寺聖律師」という人物の宗教活動を言上しているが、その文中の「令図絵聖霊会料 御影」「或申開金堂、大衆共造立多聞吉祥二天像、御願六時政行」が、それぞれ法隆寺聖徳太子坐像と法隆寺金堂毘沙門天・吉祥天立像にあたるとされる(注27)。よってこの両像は、「元者薬師寺聖律師」という同一人物が関わることが想定されるのである。この「元者薬師寺聖律師」に関しては、『法隆寺白拍子』の「三経院縁起事」や『薬師寺別当次第』等の記事により、元薬師寺法相宗の学僧で薬師寺別当を務めた「道勢」という人物に該当し、源義は道勢の門弟であったことが指摘されている(注28)。さらに興味深いのは、「開浦院住僧解」に「其時人皆謂本願太子再降臨給」とあり、道勢が聖徳太子の再降臨と称されていたことが記されている点である。聖徳太子坐像が法隆寺の聖徳太子信仰の一連の高まりの契機ともなった重要な作例である点、聖徳太子の再降臨と称された道勢という元薬師寺僧が両像の造立に関わっている可能性などを考慮すると、法隆寺金堂毘沙門天・吉祥天立像が単なる吉祥御願という法会の本
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