鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 214 ―の落款を持つ《稲荷山図》(個人蔵)の書体と近似する。《稲荷山図》は「噲々」朱文内瓢外方印を捺し、共箱の年紀より天保2年(1831)の作であることが知られている。箱書きにある「真如院」とは、栃木市の旧家、三■■■■悦家の8代、意宝(嘉永元年[1848]没)のことである。初代の盛■■■■筭(寛永18年[1641]没)は伊勢の出身で、高野山で修業の後、高野聖として布教のため関東に出て、壬生の興生寺に寄寓した。3代、快■■■■■諄(元禄11年[1698]没)のときに栃木に移住し、4代から三悦家と円■■■■説家に分かれた。三悦家と円説家は僧籍を保ちながら、それぞれ三星屋、井筒屋の屋号を持ち質屋を営んだ。明治初期のころからは、それぞれの家■守■■であった喜多川家と坂倉家が後を継いでいる(注2)。喜多川氏によると、三悦家7代、正覚院智光(天保9年[1838]没)は俳諧を楽しむ文化人でもあり、隠居した後、江戸へ出て浅草寺へ身を寄せたという。江戸では文人墨客と交わることも多かったのではないかと推測される。そのような中、其一周辺のグループと接触することもあった可能性も考えられる。直接其一に依頼することがあったかどうかは分からないが、この屏風が8代真如院意宝のもとにあったのは、父智光の存在が大きいと言えるだろう。描かれているのは、雪の降り積もる丘に2羽の真鶴、雪を被った松の大木、紅梅、笹、飛沫をあげる波から陸に上がろうとする蓑亀(甲羅についた藻が尾のように伸び、長寿の象徴)で、松竹梅に鶴亀という吉祥尽くしの画題である。松や笹に積もる雪や地面の雪は胡粉に濃淡を付け質感を表現しているのに対し、梅の枝に積もる雪と画面全体に舞い散る雪は、胡粉を必要以上に厚く重ねており、この部分の雪は後の筆による可能性が考えられるが、全体として見ると、透き通る波頭がうねり、存在感のある松の大木、躍動的な鶴のポーズ、また鶴の脚鱗や亀の甲羅、足は丁寧に描きこまれており、迫力ある画面となっている。鶴は、一羽は羽を広げ、もう一羽は片足を曲げ後ろを向く。其一の鶴図というと、《群鶴図屏風》(ファインバーグ・コレクション)が挙げられるが、こちらは「其一太冲筆」の落款と「鋤雲」朱文円印を有し、「其一」の書体は①タイプで第1期前期にあたる作と考えられる(注3)。光琳の《群鶴図屏風》(フリーア美術館蔵)の翻案であり、『光琳百図』前編にも収載されるほか、抱一もそれを写した作品を残した。抱一の《群鶴図屏風》(ウースター美術館蔵)が光琳作の左隻の中央部分を左右逆に反転させ、同方向を向く単調な鶴図としたのに対し、其一は様々なポーズの鶴をリズミカルに配し、足の描き方も写実性が増している(注4)。其一の第1期前期の作例としては、《梅竹に鶯図》(プライス・コレクション)など抱一の画風に近いものが多いが、

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