― 215 ―その中にあってこのファインバーグ本は先人の作に倣いながらも、自己のスタイルを模索した表れと言えるだろう。そしてこの《松竹梅鶴亀図屏風》は、ファインバーグ本よりも後の制作となり、動きのある鶴の形態は、光琳や抱一の流れを汲むというよりは、応挙を始めとする四条円山派の鶴図のほうに近いだろう。波に注目すると、大きくうねる波頭、細かく広がる波飛沫は、こちらも琳派の先人たちの波や、後に見られる「噲々」落款の《松島図小襖》(ファインバーグ・コレクション)の装飾性の高い波の表現とも異なり、応挙によって金剛寺障壁画として制作された《波濤図》(天明8年[1788])に類似性を見出せる。其一がこの《波濤図》の存在を知っていたかどうかはわからないが、違う流派であっても吸収できるものは貪欲に画風の中に取り入れていったのではないだろうか。天保4年(1833)の西遊旅行を記した『癸巳西遊日記』(原本鈴木其一著、鈴木守一書写 京都大学附属図書館谷村文庫蔵)には、京都において、四条派の岡本豊彦や松村景文のもとへ出向いたことが記されており(3月4日・4月3日)、西遊以前より四条派の絵師たちと交流があったことがわかり、少なからず彼らの作品を目にする機会もあったことであろう。一方、雪の降り積もった丘の丸みを帯びた線は、抱一の《四季花鳥図屏風》(文化13年[1816]陽明文庫蔵)に見られるような、なだらかに波打ち盛り上がる土坡に近い。また、画面からはみ出す存在感のある松の大木は、後の《夏秋渓流図屏風》(根津美術館蔵)に見られるような檜の巨木表現の先駆とも言える。本作において其一は四条円山派や琳派の先人たちの様式を折衷させ、さらに自らの個性を表現しようと試み、その萌芽を見ることができた。もう一点、其一の鶴図の第1期の作例として《双鶴図》(永田氏蔵)〔図3〕について触れておきたい。所蔵者の永田家は、姫路藩家老の家系で、永田成■■■■美(俳名 祇国 1751〜1818)は、酒井忠■■■■恭・忠■■■■以・忠■■■■道・忠■■■■実の4代に渡って仕え、忠以の弟抱一とも交流があったという(注5)。抱一を通じて永田家との関係も生まれたのだろう。落款は「其一筆」の②タイプで第1期後期の作で、「噲々」朱文内瓢外長方印を捺す〔図4〕。画面左方を見つめる二羽の真鶴。手前の鶴は尾をこちらに向け首をすくめ、奥の鶴は片足を挙げた様子で描かれる。口を開けた鶴の顔や、後ろ足を曲げるポーズなどが《松竹梅鶴亀図屏風》と共通し、墨の濃淡やにじみを生かしたのびやかな筆は、《松竹梅鶴亀図屏風》の後、自分なりの鶴図を習得したことを物語っているだろう。次に画業第2期について論を進めたい。第2期は主に「噲々」落款を用い、其一らしい画風が花開いた時期であるが、文政11年(1828)の抱一の死が大きなターニング
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