サメビタキ― 217 ―「百獣図」のほうは、麒麟、大輪の牡丹に2匹の獅子、獬■■■豸、獏■■、7頭の鹿(1頭は白鹿)、2匹の手長猿、猿の親子、猩々、狒■■狒、右端の動物は不明、豹、虎と白虎、豺■■■■(注10)、熊、羆■■■、狸、2匹の狐、貉■■■、鼬■■■、猪、萩の前に2匹の兔、狡兎(注11)、葡萄の木に2匹の栗■■鼠、2匹の猫、麝香猫、■■犬の親子、2匹の狆、馬の親子、2匹の驢馬、2匹の牛、モグラ、3匹の羊、7匹の鼠■■■(1匹は白鼠)、貂■■か、駱■■■駝、象、芭蕉の近くに2匹の狗、3匹の唐犬、水牛の親子、水犀、豚の親子、水■■■■豹、水流を見つめる動物は不明(猟■■■虎か)、以上43種78体の動物が描かれている。描かれる種類や数は鳥のほうが圧倒的に多く、個々の大きさから考えると自然のように思われるが、鳥のほうが描き慣れているような印象を受ける。鳥も動物もこれだけの種類を描くにあたって、参考となる資料が手元にあったと考えられる。例えば『和漢三才図会』(1712年序)、『訓蒙図彙』(1666年序)、『唐土訓蒙図彙』(平住専庵著 橘守国画 1719年)などの百科事典や、『画筌』(林守篤編 1721年)、『絵本写宝袋』(橘守国 1720年)、『絵本通宝志』(橘守国 1729年)、『宋紫石画譜』(宋紫石 1765年)、『古今画藪』(宋紫石 1770年・1779年)などの絵手本が想定される。宋紫石(1715〜1786)は、姫路藩酒井家に出入りし忠以と交流があった。酒井家において其一が宋紫石の資料を目にすることは十分に考えられる。また江戸時代は鳥類の飼育が盛んで、鳥の飼育書も多く刊行されており、広く一般庶民まで浸透していた。大名クラスともなれば、多種類の鳥を飼って楽しんでいたようである。其一は身近に見ることができた鳥たちを写生し、本作の手控えとすることもあったのだろう。特定ができない鳥もあるが、多くはその特徴をよくとらえている。鳥図に描かれる梟と大木葉木菟の周りを取り囲むように小鳥が飛んでいる様子は、モビングあるいは木■■■■菟引を描いている。モビングは小鳥などが群れをなして鷲鷹類や梟・木■■■■菟などの猛禽類に集団で攻撃をしかけ、威嚇して相手を追い払うという行動で、木菟引は日中目が見えず動けない木菟に、時として頭巾を被せ、または足を紐で縛り付けておとりとし、小鳥を捕まえるものである。其一にはモビングの様子を描いた《群禽図》(個人蔵)という対幅の作例がある。各幅に「噲々其一」の落款(行書体)、「元長」朱文鼎印を有し、同じ第2期に制作されたものである。対幅を連続する画面とし、右幅は、右上に描かれる下方へ飛ぶ鳥は不明であるが、枝にとまる鷽■■の雄から時計まわりに、黒■■■■■鶫または眉■■■■白の雌、大■■■■瑠璃、枝にとまり振り返る鳥は不明、柄■■■長、赤■■■■髪(注12)、鶫■■■、白■■■■■■鶺鴒の雄、四■■■■■■十雀、小■■■■■■鮫鶲または鮫鶲か、頰■■■■白、灰■■■■鷹または雀■■鷹の雌、以上13種、左幅は右上の枝から反時計まわりに、河■■■■■原鶸、目■■■白、尉■■■■■■鶲、日■■■雀、大■■■■瑠璃、交■■■喙、駒■■■■鳥、雀■■■、山■■■■雀、
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