(1835)に家督を継いでいた。正室喜代姫との間には天保5年(1834)に女子・喜曽姫が、天保6年に男子・徳太郎が誕生したが、徳太郎は翌年夭折している。男子には恵まれず、天保14年(1843)5月に御妾腹の男子・之助が誕生するも10月には亡くなり、最終的に12代忠■■■■実の孫を養子に迎え、14代忠■■■■宝(文政12〜嘉永6年[1829〜1853])となる(注21)。可能性の一つとして天保14年の男子誕生に合わせて描かれたということも考えられる。Matthew Mckelway氏は、翌年の天保15年に忠実が没し、忠宝が家督を継いだことを記念して制作された可能性を指摘している(注22)。― 220 ―もう一点、代表的な第2期の作として《夏秋渓流図屏風》(根津美術館蔵)がある。絵の詳細についてはここでは述べないが、これは其一のパトロンであった松澤家に伝わったものである。松澤家の当主は代々孫八を名乗り、日本橋本石町で蝋油問屋を営んだ大商人で、屋号を大坂屋といった。大正7年(1918)の『松澤家蔵品入札目録』を参照すると、松澤家には他にも其一作品が数多く伝わり、文政3年(1820)作の《春宵千金図》から「菁々」落款の作品まで、長年にわたって松澤家との関係が続いていたことがわかる。また其一が孫八に宛てた書状144通が残されており(国文学研究資料館蔵)、其一の最大のパトロンであったと言える。この書状は、宛名や署名から複数年にわたるもので、制作背景などを知ることができ興味深い(注23)。宛名に「松澤全三郎様」が13通含まれており、全三郎(善三郎)は5代目孫八の幼名であるので(注24)、其一のパトロンは5代孫八(享和3〜明治15年[1803〜1882])である。孫八は注文主と其一との間に入って、制作の取次を行っており、孫八自身が注文しているものもある。孫八からの注文に関しては「めづらしきもの」(8月27日[秋20]・12月18日[冬42])や「有ふれぬとの御好」・「趣向」(12月6日[冬31])といった言葉が見受けられ(注25)、其一作品の中で趣向性の高い作品は、パトロンである孫八の意向を反映して誕生したものもあると考えられる。本論では作例としてわずかな数しか取り上げることができなかったが、其一の画業第1期と第2期を考察した。画業の第1期は師の抱一を始めとする先人たちの画風に倣いながら、独自の個性を模索し、その萌芽が見られた。第2期は作品の享受層を意識し、その上で其一の創造性を開花させていった。そしてその後の其一作品のイメージとして定着していった。其一にとって第1期と第2期は、自らの画風を確立していった時期で、画業の中でも核となる部分であると言えよう。本研究は、一つの流派における画風の伝承と絵師のオリジナリティ、江戸期における流派間の交流・影響関係、絵師と受容層の関係という普遍的なテーマを備えており、今後も引き続き研究を続けるつもりである。また《百鳥百獣図》は、背景にある鳥獣図としての思想、明末
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