鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 227 ―「学僧像」と「取経僧像」玄奘の多様なイメージは、中世日本において、「学僧像」と「取経僧像」という二つの基礎的な図像系統に発展した。学僧像は朱袈裟を纏い、左手に梵篋を取り、右手は胸前で印を結ぶ。表情はやや厳しく、しばしば童子形を随える。童子の緑がかった顔色や巻き毛は、外国(西域あるいは天竺)の出自を想起させる。学僧像は玄奘の学者としての側面や翻訳者としての功業を反映しており、西大寺本、聖衆来迎寺本、そして同系統の薬師寺C本(注2)〔図2〕等、少数の「善神図」にその典型が見られる。一方で、取経僧像は西域を旅する玄奘のイメージに基づき、経典で満たされた庇付きの大きな笈を背負い、右手に払子を、左手に経巻を取り、旅装で闊歩する姿であらわされ、はるかに親しみやすい印象である。取経僧像の玄奘は時として金環を付け、剣を携える。この取経僧像は、沙漠や天山山脈を踏破し、想像を絶する巡礼を成し遂げた玄奘の説話的イメージであり、上記の図様を基本としつつ様々に反復され、大半の「善神図」中の玄奘像に使われた。学僧像と取経僧像の系譜は、混在する玄奘の複数のイメージをもとに図像化され、異なる意図を満たすために発展した。釈迦十六善神図釈迦十六善神図では大般若経とその受持者の保護する十六の夜叉善神が、釈迦如来坐像を中心として左右に描かれる。釈迦は通常は普賢・文殊菩薩を脇侍とし、加えて法涌・常啼菩薩を伴う場合もある。通常、法涌は中国風の女神の姿で釈迦の左にあらわされ、常啼は僧形で、法涌に相対して描かれる。玄奘は釈迦の左側に並ぶ尊像の最前部に最も頻繁に描かれ、赤い肌をした深沙神王と対をなす。「善神図」は描かれる尊像が多いため、 玄奘の姿は通常小さく、その図様の正確な把握には注意深い調査が必要となる。 『中右記』は、永久二年(1114年)七月二十一日に行われた大般若経の転読に際して、すでに「善神図」が釈迦像と共に奉安されたと記録している(注3)。 しかし、現存最古の「善神図」には玄奘、深沙神王いずれも含まれない(注4)。 現存する作例から判断するに、玄奘と深沙神王は鎌倉初期に「善神図」に加えられたようである。なぜあえてこの時期に両者が尊像に加えられたのかについては別稿にゆずる。ここでは、大般若経の翻訳者である玄奘の「善神図」への追加は論理的であり、この時期までに大般若経が伝授されたと信じられていた常啼菩薩も尊像に加えられていたことを指摘するに留める。玄奘の神格化は、彼の生前からすでに始まっていたとおぼしく、「善神図」への追加は、その延長線上にあると考えられる。玄奘自らの口述に基

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