鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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づくと考えられる『大慈恩寺三蔵法師伝 』 では、玄奘が、高昌国王の強い要請により、巡礼の旅が頓挫しかかった時に、自身の求法の決意を、常啼菩薩(「波崙問道之志」)と善財童子(「善財求友之心」)に喩えて訴えたと記している(注5)。 一方、玄奘の守護神である深沙神王は筋骨隆々とした赤い夜叉としてあらわされ、 左手に青蛇を取り、首には髑髏の瓔珞を掛け、 臍には童子の生首をあらわし、裾が象頭の膝丈の袴を着ける。玄奘像とは異なり、中世の図像集は深沙神王の図像について豊富な情報を含む。玄奘は、旅の初期に流沙を守護する夜叉である深沙神王に呑み込まれそうになったが法力でこれを屈服させたという説話も載せている。この際、深沙神王は、自らの首に纏う七つの髑髏が、玄奘が前世で取経僧として流沙を七度越えようと試み、その都度飲み込んだものであることを明かし、改心する。その後、深沙神王は危険な流沙を玄奘が渡ることを扶けた(注6)。『常曉和尚請來目録』によれば、唐代において深沙神王は毘沙門天の化身であると考えられていた(注7)。 「善神図」中の玄奘と深沙神王の組み合わせは、鎌倉時代の仏画に多くみられた説話との影響関係を反映しているように思われる。 釈迦十六善神図における玄奘三蔵の姿釈迦十六善神図における玄奘三蔵の姿は、原瑛莉子・佐藤大両氏によって 分類されている(注8)。 筆者は「玄奘三蔵絵」の解釈をするという目的から、中世の作例に限定しつつ、自身の調査に基づき、原氏の分類に若干の修正を加え、以下の四タイプを提示したい。タイプA 玄奘は吊り袈裟を纏った学僧像で、胸をはだけ、左手には梵篋を取り、右手は胸前で印相を結ぶ。このタイプの像様は法相曼荼羅と厨子扉絵に描かれる玄奘像のような、南都にすでに存在したより古様な図像に近似する(注9)。 西大寺本、聖衆来迎寺本(ともに十三世紀)、そして同系統の薬師寺C本(十四世紀)に、このタイプの学僧像がみられる。西大寺の例では、今は褐色に変色している玄奘の袈裟の本来の色を確かめるのは困難であるが、もとは遠山の模様の入った袈裟であったという痕跡がある。その下には、おそらく本来は金泥模様をともなった赤裙を着けていた。聖衆来迎寺本と薬師寺C本の図様では、玄奘の袈裟は赤と黒である。傍らの童子形は茣蓙と水瓶を持し、面相や巻き毛の頭髪など非中国人の様相を呈する。この玄奘像は、図様の特徴から、興福寺南円堂内部の板絵に含まれた玄奘像の系統にあたる可能性がある。 保存状態のため南円堂の玄奘像を確認することは難しいが、京都国立博物館蔵― 228 ―

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