鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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ている(注19)。 朱袈裟の意義以上の分類から、高僧伝絵巻 である「玄奘三蔵絵」が制作された十三世紀初頭までは、朱袈裟を纏ったタイプAの学僧像が比較的稀であったことが分かる。それではなぜ、興福寺の大乗院門跡の継承の証として受け継がれた「玄奘三蔵絵」の製作依頼者は、この玄奘像を選んだのだろうか。理由の一端はもちろん、中国帰国後の玄奘の長年にわたる翻訳作業を描く上で取経僧像は適切ではなく、学僧像が図像的により柔軟性を有していた点にあったと思われる。上述のように、袈裟(遠山模様も朱袈裟も)を纏った学僧像は、南都地域に関連したより古い図像であり、興福寺が法相宗の鼻祖としての玄奘と真正な関連性を有する点を強調することを狙った製作依頼者の意図があったと思われる。だが、こうした見解は、なぜ出光美術館蔵「龍智行状図」と西大寺本「釈迦十六善神像」で描かれる遠山模様袈裟ではなく、朱袈裟が選ばれたのかについて、明確な回答を与えるものではない。「玄奘三蔵絵」巻四第四段では、玄奘が密教の師である龍智から伝承を受ける様子が描かれる。ここで龍智が玄奘同様裏地が緑の朱袈裟を纏っていることは注目できる。この年上の天竺僧は両肩から袈裟を纏い、左手で袈裟の裾を取る。袈裟は胸前ではだけ、右腕の金の腕釧をあらわにしている。 詞書から、この僧が真言宗第四祖龍智であることは明らかである。だが、この龍智像を東寺蔵「真言七祖像」中の「龍智像」(821年作)、出光美術館蔵「龍智行状図」と比較すると、両肩にかけた袈裟を胸まで覆う点で、明らかに異なる。実は東寺蔵「真言七祖像」では、胸と腕釧を露わにしている形で描かれるのは龍智ではなく、第三祖師龍猛である。 最近、阿部龍一氏は「真言八祖行状図」に描かれる真言宗の祖師たちの生涯に関する逸話は、玄奘の生涯にまつわる著名な逸話との最大限の共鳴を記録するために注意深く選ばれたと指摘された(注20)。 阿部氏は、これが興福寺の影響下にある寺院において、密教的な真言宗と顕教的な法相宗の信仰の同時実践を例証し、そしてその地位を向上させるためになされたと説明する。この点について筆者は、「玄奘三蔵絵」巻四第四段で、まさしく同じ朱袈裟を纏い対面する二人の僧形像を通じて、次のように推察する。すなわちこの場面では、随伴する詞書や「龍智行状図」よりさらに一歩進んで、玄奘が龍智のみでなく、全ての現世師僧中最も偉大であると考えられていた龍猛とも親密な関係にあったことを描こうとした可能性を指摘しておきたい。もしこのような意図を「玄奘三蔵絵」における朱袈裟の使用に認めることができれば、中世― 232 ―

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