注⑴ 太田辰夫『 [大倉文化財団蔵宋版]大唐三蔵取経詩話』(汲古書院、1997年)にその完全な複製⑵ 薬師寺本は 原瑛莉子「玄奘三蔵のすがた─釈迦十六善神像から」『薬師寺』 177号、薬師寺、⑶ 「釈迦像、十六神王像奉圖繪。」東京大学資料編纂所編『大日本古記録 』21、岩波書店、1993−⑷ これらの図画は、個人蔵の1165年の般若十六善神図像(実任本)、1179年の東京国立博物館蔵 の十六善神図像(玄証本)、東京国立博物館が管理する一対の図像である。これらは、次の研究により考察されている。中野玄三「宋請来図像の伝播─長寛三年般若十六善神図像を中心にして─」『國華』1026号、國華社、1979年、16−37頁 、林温「十六善神像の古例─兵庫聖徳寺所蔵釈迦十六善神」『國華』1156号、國華社、1992年、7−23頁、林温「東京国立博物館保管十六善神画像について」『ミユージアム』433号、東京国立博物館、1987年、19−34頁。⑸ 「波崙問道之志。善財求友之心。只可日日堅強。豈使中塗而止。」『大正蔵経』五十、二二五a。⑹ 磯部彰『『西遊記』史料の研究』東北大学出版会、2007年 および サンダーズ・レイチェル「玄奘三蔵絵研究〜玄奘三蔵像の二つのかたち及び典拠テキストの重層性」『B1』6号、東京大学東洋文化研究所、2012年、15−26頁を参照。⑺ 「深沙神王像一躯。右唐代玄奘三藏遠渉五天感得此神。此是北方多聞天王化身也。今唐國人總重此神救災成益。其驗現前。無有一人不依行者。寺裏人家皆在此神。自見靈驗實不思議。具事如記文。請來如件。」『大正蔵経』五十五、一〇七〇c。― 233 ―の「善神図」中で同様の袈裟を着するタイプAとDの玄奘像にも、さらに重層的な意味合いが込められていたと解釈できる。伝記、説話、 図像に残されている人々が共有した玄奘の記憶と、そうした記憶における「肖像」の所作は、中世の釈迦十六善神図に様々な形で視覚化された、玄奘三蔵の伝記を母体として、新たな、そして魅力的な意義を生み出すことを可能としたのである(注21)。結び以上、本研究では、中世釈迦十六善神図の中での唐代の僧玄奘の図像を辿った。こうした試みが、玄奘の人生に関する多様な図像群の通時的な系統性を解読することに少しでも寄与できたならば、望外の喜びである。筆者の結論と方法論をさらに検討するため、今後は仏教儀礼における釈迦十六善神図の機能、そして「善神図」の南都地域における玄奘関連儀礼との関係というふたつの問題に取り組んでゆきたい。また、簡単な問題ではないが、個々の釈迦十六善神像の当初の所蔵寺院の分布を把握することも、将来的にタイプAの玄奘三蔵と南都興福寺地域との結びつきに関する仮説を裏付ける手だてとなると考える。 2013年、20−35頁の表記に従う。2008年、1−6頁。版が載る。
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